新田開発に人生をかけた甲府代官・平岡和由/良辰父子

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山梨県甲斐市竜王――。この地には、戦国時代に活躍した甲斐国の守護大名・武田信玄の指示によって築かれた『信玄堤』と呼ばれる堤防がある。この堤防が築かれたことで甲府盆地の水害が激減、江戸時代には大規模な用水路工事が行われて新田開発が活発になった。今回は、甲府盆地の新田開発に心血を注いだ甲府代官・平岡次郎右衛門和由(ひらおかじろうえもんかずよし)と、その子、平岡勘三郎良辰(ひらおかかんざぶろうよしとき)について、甲斐市富竹新田と北杜市明野町浅尾新田で取材を行った。

 

戦国期の大規模治水工事・甲州流川除法「信玄堤」と竜王河原宿

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甲府盆地西部は、古来、氾濫を繰り返す釜無川(富士川)により水害が多発しており、住民が定住するには不向きな地域であった。信玄は高度な治水技術により、見事に釜無川の氾濫を抑え込むことに成功した。

shindenkaihatsu3▲高台から望む信玄堤。画像左下の住宅密集地のあたりが『竜王河原宿』

 

1560年代には、信玄堤の管理や補修などを行う労働力を確保するため、堤防からほど近い場所に『竜王河原宿』が整備され移住者を募った。

shindenkaihatsu4▲竜王河原宿があった場所。租税一切免除という特典もあり、近隣から移住者が集まった

武田氏の滅亡後も、「竜王が甲斐国最大の水難場である」として竜王河原宿による川除体制が継続、信玄堤の機能が強化された。信玄堤は現代でも、『甲州流川除法(こうしゅうりゅうかわよけほう)』として、日本における河川工事の参考にされている。

 

竜王用水を引き込み荒れ地の開拓に心血を注いだ代官・平岡和由

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江戸時代に入ってもなお、堤防は竜王の地を水害から守ってくれていた。そこで、時の代官であった平岡次郎右衛門和由は、釜無川から用水路(竜王用水)を引き、過去の水害によって荒れ地と化していた富竹村(現:甲府市富竹)の北西部で入植者を募り、水田開発を行った。

shindenkaihatsu6▲右の石碑が信玄堤公園の脇にひっそりと建つ竜王用水の開削碑。富竹新田村の住民が和由を偲んで建立した謝恩碑である

 

用水路の完成が寛永14年、本格的な富竹新田の開発は寛永16(1639)年に着手。富竹村および富竹新田は幕府から租税(年貢等)を免除され、水田開発による発展の礎が確立されていく。そして富竹新田は、慶安5(1652)年[和由の没後11年後に、富竹村からの独立を果たすことになる。

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shindenkaihatsu8▲昭和47年(上)と平成19年(下)の富竹新田。現在では甲府市のベッドタウンとして宅地開発が進み、水田の多くが姿を消した(提供:国土地理院)

 

和由により、名取新田(現:甲斐市名取)や金竹新田(現:甲府市池田付近)などの開発も行われた。これらの新田地域では、昭和の時代が終わる頃までは稲作も盛んに行われていたが、宅地開発によって広大な水田は姿を消し、平成も終わろうとしている現在では家々の間に点在する程度にまで減少してしまった。

 

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▲左:現在、富竹新田の南部は国道20号(甲州街道)が貫いている。右:富竹新田に残る水田。宅地開発の進む現在も、昔からの農家が細々と稲作を続けている(撮影:2019年冬)

 

shindenkaihatsu11▲和由によって開削された竜王用水は、現在も現役で活躍している

 

和由が引き込んだ竜王用水はその後90年間、富竹新田村単独の用水路として活用され、享保13(1728)年には本竜王と竜王新町の2村が加わって組合を形成。さらに9年後の元文2(1737)年には篠原が加わり、四ヶ村の組合によって共同管理された(竜王四ヶ村堰と呼ばれた)。

 

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▲本竜王(左)と竜王新町(右)の水田。かつてはこのあたりにも広大な水田が広がっていた。往時の面影はなくなったが、現在も農家の努力によって稲作が続いている(撮影:2018年秋)

 

父の意志は子へ! 平岡良辰による浅尾堰の開削と浅尾新田村の開村

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平岡和由は寛永14(1641)年に没するも、代官職は、子・平岡勘三郎良辰に引き継がれ、父・和由が進めていた富竹新田開発の継続、茅ヶ岳山麓では『浅尾堰(あさおせぎ)』と呼ばれる用水路の開削、それによる浅尾新田(現・北杜市明野町)の開発などに尽力した。浅尾新田を含む周辺エリアは、現在でも県営の圃場整備が行われるなど山梨県有数の米どころとなっている。

しかし現在、『浅尾堰』という名前の用水路は存在していない。なぜならば、『朝穂堰』という呼称になっているからだ。朝穂堰の維持管理を行っている朝穂堰土地改良区事務所の篠原弘三理事長によると、「『浅尾』から『朝穂』と呼ばれるようになった正確な時期は不明ですが、明治時代の政令によって呼称が変わりました。ちなみに『朝穂』と書いて『ちょうほ』と読みます」とのこと。

 

浅尾堰の完成から70余年後の享保3(1718)年、浅尾新田から南へ1kmほどの場所にある『穂坂(現:韮崎市穂坂町)』という地域に『穂坂堰』という用水路が引かれたが、明治5年に発布された政令により、『浅尾堰』と『穂坂堰』が1本にまとめられた。いつの頃からか総称として『浅穂堰(あさほせぎ)』とも呼ばれるようになったが、現在では『朝穂堰』と呼ばれている。

shindenkaihatsu15 16▲左:朝穂堰土地改良区事務所を中心に朝穂堰の維持管理が行われている。右:浄居寺入り口に残る浅尾新田開村当時に建てられた石碑。『浅尾堰』や『穂坂堰』という文字が確認できる

 

shindenkaihatsu17▲「安全でおいしいお米を作るために農家は常に努力している。私たちはその努力が途切れないよう、安定的に水を供給する義務がある」と、語ってくれた篠原理事長

shindenkaihatsu18▲山梨県三大堰に数えられる朝穂堰は総延長22kmで高低差100mほどを8時間かけて流れている

 

取材の途上、浅尾新田の開村にともなって開山した『常牧山 浄居寺』に立ち寄り、当時の歴史に詳しいご住職にもお話を伺うことができた。「浅尾堰の開削や浅尾新田の開発では諸役免除の条件をつけて入植者を募り、現在の甲斐市北部あたりの山奥に住む住民を中心とした50家余りが入植したのです」。当時入植した家々の現在について聞いてみると、「子孫は現在でもこの地に定住しています。早い家ではすでに11代目を数えます」と、教えてくれた。他の家々でも9代目か10代目くらいにはなるのだそうだ。

shindenkaihatsu19▲朝穂堰開削の図。重機など存在しない当時、開削はすべて人の手によって行われた(提供:朝穂堰土地改良区事務所)

 

shindenkaihatsu20 21▲左:常牧山 浄居寺。右:浄居寺に安置されている平岡次郎右衛門和由と平岡勘三郎良辰の木像(提供:常牧山 浄居寺)

 shindenkaihatsu22 23▲左:浄居寺と右:朝穂堰土地改良区に建てられた朝穂堰改修の記念碑

 

朝穂堰は、昭和44年~52年に、国と県によって総事業費9億円以上をかけた大規模改修が行われた。この事業で老朽化による漏水も改善され、より安定的な水供給が可能になった。

 

自ら開発を指揮したそれぞれの地で祀られた和由・良辰父子

甲府市北部にある円光院には平岡一族の墓所がある。自らが水田開発に尽力した甲府盆地を一望できるこの地で、平岡次郎右衛門和由は眠っている。

shindenkaihatsu24 25▲左:円光院に建てられた平岡和由の墓。右:円光院の眼下には和由が開拓に尽力した甲府盆地が広がる

 

また、甲斐市富竹新田にある神明神社では、古社・水神宮とともに和由が祀られている。富竹新田開村の功を偲んだ住民によって、水神と和由の姿とを重ねて祀られたのだという。

shindenkaihatsu26 27▲左:神明神社脇の古社水神宮。右:水神宮には、『御免許 平岡次郎右衛門和由諸役除地厚恩之輩建立之』とある。和由による諸役免除の恩を受けて住民が記した感謝の意である

 

一方、浅尾新田の石塔庵跡地には、子・良辰の墓と供養塔が建てられている。戒名に使われている文字から『玄空さん』と慕われ、毎年春彼岸の時期には浅尾新田地区の行事として供養が続けられているそうだ。

shindenkaihatsu28▲平岡勘三郎良辰の墓。その功績は広く地元から偲ばれている

 

今回取り上げたのは甲府代官・平岡和由とその子、平岡良辰であるが、日本の長い歴史において、全国にもこうした『開墾のリーダー』があちらこちらに存在したであろうし、新田開発によって開かれた地域も多数ある。

もちろん、新田開発を成し遂げ、壮大なフロンティア精神で道を開いてくれた入植者たちの存在があったことも忘れてはいけない。領地の石高を上げるためという政治的な目的があったことも確かだが、一方ではそれによって住民側にもたらされたメリットもまた大きかった。

浅尾新田の例であれば、入植者のほとんどは山奥に住んでいた者たちである。土地の貧しい山奥に住んでいても子々孫々まで伝わる財産は残せなかったはず。並々ならぬ決意で新しい土地に移り住んだからこそ、肥沃な土地を後世にまで残すことができているのだ。

私たちが毎日あたりまえのように食卓で美味しいお米を口にできていることは、実は先人たちの努力の上に築かれた『財産』をいただいているのと同じである――。今回の取材をとおして、そんな感謝を再認識することができた。

 

参考文献:

『近世甲斐の治水と開発』

『ふるさと川ばなし 上巻』

『龍王村史』

『龍王町史』

『甲斐国志』

『山梨日日新聞発行 山梨百科事典』

『甲府盆地に残る虚構と真実』

『甲斐路と富士川』

 

取材協力:

常牧山 浄居寺

朝穂堰土地改良区事務所

 

文:小須田 こういち

山梨県在住のライター。地域の身近な情報から歴史、ペットといったテーマまで幅広く取材・執筆をこなす。農業生産者との対話を通した記事の作成も行っている。

 

takasuka1写真提供:SunRice

オーストラリア在住の筆者は、「オーストラリアのお米は日本のお米に劣らずおいしい」といつも思ってきた。最初はただの偶然だと思っていたが、オーストラリアに稲作を伝えたのが『高須賀穣(たかすかじょう)』という日本人だと知って驚いた。高須賀穣はいったいどのようにオーストラリアで稲作を広めたのか、そして現在のオーストラリアの稲作はどうなっているのか。高須賀穣の軌跡とオーストラリア稲作業の歴史を辿ってみた。

 

まるで日本米!? 異国の地で出会った、ふっくらしっとりのごはん

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日本人が海外に行った時にまず食べたくなるのがごはん(炊飯)。約40年前、筆者がオーストラリアに渡った時もそうだった。ところが、近くのスーパーマーケットに行くとパックに入ったお米が売られている!「パンを主食とするオーストラリアにお米?」と、一瞬自分の目を疑った。しかも日本のお米とよく似ているのである。

東南アジアなどに行ったことがある人はご存知だと思うが、日本以外の国のお米は一般的に米粒が長くて水分が少なく、そのためパサパサとした舌触りがある。ところが、オーストラリアのお米は日本のお米と同じで短めでしっとりとしているのだ。「いったいどうして、ここに日本のようなお米が?」とその頃はただ不思議に思うだけだったが、後に、オーストラリアの稲作はある日本人によって伝えられたものだと知りさらに驚いた。

 

オーストラリア稲作の先駆者・高須賀穣の生い立ち

その日本人の名は、高須賀穣(本名:高須賀伊三郎)。1905年にオーストラリアのメルボルンに一家をあげて移住し、後にシドニー近くのリートンに移ってそこで本格的な稲作を始めた人である。

穣は1865年愛媛県松山市で生まれた。父親は松山藩の料理長で名を高須賀賀平といった。裕福な家庭に生まれ育った穣は、慶応大学に進みその後アメリカに留学して博士号を取得。帰国後の1898年、衆議院選挙に立候補し当選、これをきっかけに政治の世界に入る。ところが、1902年の選挙には立候補していないため、政界への希望を捨て新しい生き方を模索していたことが伺われる。その新しい生き方のために選んだのがオーストラリアだった。その頃穣は、すでに前島イチコと結婚し、長男・明と長女・愛子をもうけていた。

 

オーストラリア移住後の生活

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▲高須賀穣(右)と妻のイチコ 写真提供:SunRice

 

高須賀一家がオーストラリアで移住したのはメルボルンだった。最初は貿易会社を設立し生計を立てていたが、当時オーストラリアは白豪主義を取っていたため、永住権は取れず12か月の滞在許可がもらえただけだった。不安定な生活が続いたが、そのうちにオーストラリアで稲作を始めることを思いつく。

実験的な稲作を行うために、ビクトリア州政府(州都メルボルン)から5年間土地を借り受けた。ところがその土地は毎年洪水に見舞わる地域にあったため、穣は日本から応援に駆け付けた父・賀平の助けを借りて3kmに渡る堤防を作り洪水に対処した。この堤防は今でもその跡を残している。苦労の多かった稲作の実験だったが、結果的には日本から取り寄せた25種の内“タカスカ” (“ジャポニカ”とも呼ばれている)の名前でまとめられている3種類の種から、ある程度の収穫を収めることができた。

そのニュースは近隣の農家にも伝わり、これらのお米の種を求める人が穣の元にやってくるようになった。ただ、その頃もビクトリア州政府はそれほど協力的ではなく、穣は苦難を強いられていた。

 

ニューサウスウェールズ州で花開いた稲作

takasuka4 s写真提供:SunRice

ところが、良いことは起こるものである。隣の州であるニューサウスウェールズ州が、穣の稲作に関心を示すようになったのだ。穣一家はリートンに移り、そこで正式な稲作の実験を始めることになる。品種“タカスカ”も好成績を上げていたが、最終的にはアメリカのカリフォルニア州から取り寄せた“カロロ”種(日本から渡ったジャポニカの種にアメリカのインディカ種を交配したもの)のが商業化されることになり、ここからリートンでの稲作が本格的に始まった。

現在オーストラリアで生産されている80%のお米はジャポニカである。穣が伝えた稲作技術はオーストラリアの稲作業の基礎を築いたとして、彼の偉業はオーストラリアで広く認められている。2014年には、オーストラリアの米協会が毎年開く定例会議で、穣の子孫に対し敬意の念を示している。

 

takasuka5写真提供:SunRice

 

穣がリートンで始めた稲作は、今では、オーストラリアで最も大きな米会社である『サンライス(SunRice)』に受け継がれている。近年、サンライスは、日本語の字幕入りで穣とオーストラリアの稲作業界に関するドキュメンタリーを制作。現在正式な公開が待たれている。

海外に渡って生活することがまだまだ珍しかった明治時代に、果敢にオーストラリアに渡り困難と苦労の末に稲作の基礎を築いた高須賀穣。その勇気と努力には頭が下がる思いである。オーストラリアで炊き上げたごはんを口にするたびに、日本に思いを馳せるのは筆者だけではないだろう。

 

参考サイト:

SunRice

https://sunricesushi.com/our-heritage/
http://www.sunricejapan.jp/takasuka.html

100 Years of Australian Rice commemorative Booklet
https://www.dropbox.com/s/a02280lyfhig7p0/100%20years%20of%20rice_FINAL_low%20res.pdf?dl=0

Jo Takasuka pioneer rice farmer
https://jt1865.wpblog.jp/

 

文:Setsuko Truong
オーストラリア、メルボルン在住のライター。オーストラリアにいる日本人向け新聞への執筆のほか、趣味の旅行や海外生活の体験を活かして、観光や異文化比較、ライフスタイルなどについての執筆を行っている。

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紺碧の海に囲まれた、熊本県天草地方。16世紀に日本でいち早く南蛮文化が伝わりキリスト教が普及。天草・島原の乱が起こるなど歴史的な文化が刻まれてきた場所だ。2018年には、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして天草市の崎津集落が選ばれ、注目を集めている地域でもある。ここ天草で約360年前、困窮を極めた島民たちを重い年貢徴収から救った男がいた。今回は「鈴木さま」として今も市民から慕われている『鈴木重成』について紹介したい。

 

三河国で生まれ育ち、大坂で上方代官を任せられる

『鈴木重成』は、天正16年(1588年)三河国(現愛知県東加茂郡足助町)に、有力な武将・鈴木忠兵衛重次の三男として生を受ける。別家となった兄たちに代わり33歳で父の跡を継いだのち、文武両道に優れた重成は徳川将軍家に評価され、41歳の時に大坂(現大阪)の上方代官を任命される。

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そんな中、寛永8年(1631年)に農民による隠し田(かくしだ)が発覚。隠し田とは隠田(おんでん)ともいい、農民が年貢の徴収を逃れるために、ひそかに耕作した水田のこと。いわゆるこの集団脱税に怒った京の伏見奉行は、男女全員を死罪に処するよう命令。この時、重成の長兄である鈴木正三*1が「女まで処刑するとは言語道断。永遠に禍根を残す。命がけで助けよ」と重成を激励。重成は、大坂から京まで人を立てて、伏見奉行へ助命嘆願状を送り続け、ついに女性だけを助けることができたという。

*1鈴木正三・・・重成の長兄、正三(まさみつ)。徳川家康・秀忠二代に直接仕え、42歳の時に出家し名を正三(しょうさん)とする。独創的仏教思想家として重成とともに天草の復興へ尽力した。

 

 

天草・島原の乱の総大将『天草四郎』と同じ時代を生き、戦った

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重成が大坂で上方代官を務めていたのと同じ頃、幕府によるキリスト教の禁教令により、天草ではむごたらしいキリシタン迫害が行われていた。さらには重い年貢徴収や飢饉もあり、島民たちは困窮を極めていた。

天草の島は広いわりには耕地が少なく、農産物の収穫量もそう多くはない。当時の生産高は2万石程度。それが当時天草を支配していた唐津藩主・寺沢氏によって、実際の生産高の2倍、4万2千石が天草全島の石高(こくだか)*2とされていたのだ。その頃の年貢は、収穫の4割を年貢で納め、6割が生産者の取り分とされていたため、農民に何も残らない状態であったのだ。

寛永14年(1637年)10月、このようなむごたらしい弾圧と過酷な徴税に反乱し起きた一揆が「天草・島原の乱」だ。当時16歳という若さで一揆軍の総大将となった天草四郎については、ご存知の方も多いだろう。3万7千人の民衆を率いて12万人幕府連合軍に挑み続けたが、翌年2月に一揆軍は全滅。天草四郎は斬首され、戦いは終結した。

*2石高……収穫した米穀の数量。太閤検地以降、江戸時代を通じて地租改正まで広く行われた公式の評価単位で、玄米の生産高で示される。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

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この天草・島原の乱の時、重成は松平信綱率いる幕府連合軍にいた。乱の後、幕府は重成を現地にとどまらせ、天草・島原の復興を命じたという。寛永17年(1640年)、幕府は天草島の直接統治に乗り出し、初代代官として重成を迎えた。

乱で苦しみ死んでいった農民たちの姿を見てきた重成は、将軍・徳川家光にこう建言したという。

「…天草は孤島であり、しかもその大部分は山地で(耕地が少ないため)生産力が弱いにも関わらず、税だけは他所並みというのが実態であります。あの者たちが一揆に及んだのは、何もキリシタンの教えを信じたためばかりではありません。実にやむを得ぬ事情があったものと思われます」

(魚沼国器「鈴木明神伝」(文化8年、原漢文))

重成は、天草島の再建計画「亡所開発仕置(ぼうしょかいはつしおき)」を力強く推進していく。

 

 

幕府へ訴え続けた“石高半減”。そして重成の覚悟

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さまざまな復興計画を実施し、島民からの信頼を少しずつ得ていた重成。その結果、人口が増え、収穫も上がり出し、島の人々にも心の落ち着きが戻り始めていた。しかし、なおも島民を苦しめていたのが、重い年貢の徴収。重成は調査を行い、「従来の4万2千石という石高は間違いだ、2万石がやっとだろう」と考え、幕府へ繰り返し陳情した。

「石高半減を実現しなければ、また大きな悲劇を繰り返すだろう。天草は永遠に救われない」すべては、天草のため、幕府のためでもあった。嘆願を繰り返すことは非礼極まりない行為。重成は切腹覚悟で嘆願を繰り返し、ついに承応2年(1653年)10月、自分の身を投げ出してまで願いを請うたのだった。

 

これには、幕府も驚いた。通例であれば、このような事態は公儀への反抗であるとお家断絶となるところだが、幕府は「病死」とし、重成の子・重祐を跡目に継がせ、重成には法名を贈る特別な待遇が行われたという。次の代官に選ばれたのが、重成の甥であり養子であった鈴木重辰(しげとき)。重成を慕っていた島民の怒りを鎮めるためにも、血のつながった関係者を立てた格好だ。重成の自死から1年半後、明暦元年(1655年)6月に、天草天領二代目代官・鈴木重辰が誕生した。

重辰は重成の思いを受け継ぎ奔走し、万治2年(1659年)に、ついに“石高半減”を実現した。重成が命をかけた願いが実を結んだのだ。

 

苦境の時代を立ち上がってきた先人たちの思いを胸に

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▲天草市本町にある『鈴木神社』。

 

天明7年(1778年)、鈴木重成、重成の兄であり重成に助言を続けてきた鈴木正三と、石高半減を実現した鈴木重辰を合祀して『鈴木神社』(天草市本町)が建立された。天草の人々は、各地で重成を祀りいつまでも慕い続けている。

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▲天草市の中心市街地に建立された、重成、正三、重辰の“鈴木三公”の像。

 

しかしその後の研究で、「重成が自ら命を絶った」という歴史的史実は無いようだ、また、正確には寺沢氏時代の天草の石高は3万7千石であり、それが2万1千石に減らされたので“石高半減”ではない、などいう見解も出てきている。

伝承として天草の人々の中で伝わってきているとはいえ、今の豊かな天草の礎となる一因を築いたことには間違いないだろう。「鈴木さま」と愛され敬われる鈴木重成や、苦しい時代を精一杯生きてきた祖先に思いを馳せながら、今日の穏やかで豊かな日々に感謝したい。

suzukishigenari9▲『鈴木神社』がある天草市本町の田園風景。稲が元気よく成育している姿は当たり前のような景色だが、先人たちが支えてきた暮らしや智恵によるものだ。

 

参考文献・サイト:

『天草を救った代官 鈴木重成公小伝』鈴木神社社務所(2002年)

『天草鈴木代官の歴史検証―切腹と石半減その真実―』天草民報社(2006年)

なごみ紀行 ふるさと寺子屋No.039「天草を救った鈴木重成公」

https://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=039&pre_page=2

 

 

heian res1“アルファ化米”とは、炊き上げたお米を急速に乾燥させたもののこと。炊いたお米(ごはん)が劣化しやすく、携行・保存に向かないのに対して、アルファ化米は劣化しづらく、水または湯を注げば簡単に炊きたてのごはんの味が楽しめるため、非常食などに広く用いられている。アルファ化米という名称からは、最新の科学的な加工食品、という印象を受けるに違いないが、実は、同様の調理・保存法は、我が国で古来行われてきたものだ。

 

平安時代の辞典で紹介されている「かれいひ」

アルファ化米は、「乾飯(かれいひ)」または「糒(ほしいひ・ほしひ)」の名で、1000年以上前から親しまれてきた食品だ。平安時代に記された『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅうしょう。現代の百科事典のようなもの)の「飲食」のカテゴリの中や、『新撰字鏡』(しんせんじきょう。現代の漢和辞典のようなもの)に、この食品に関する記述がある。

 

「糒 和名保之以比 乾飯也」(『倭名類聚抄』)
「餱 乾飯也、加禮伊比、又保志比」(『新撰字鏡』)

 

『倭名類聚抄』の記述は、〈「糒」というのは、我が国では「ほしいひ」と言い、乾飯のことである〉という内容。これに加えて、『新撰字鏡』の記述では、「餱」という現代では見慣れない字について、〈乾飯のことである。我が国では「かれいひ」「ほしひ」と言う〉と説明されている。ここから、炊いた後に乾かしたごはんのことを、「かれいひ」や「ほし(い)ひ」と言っていたことがわかる。

 

歌物語の中に登場する「かれいひ」


heian res2▲江戸時代に書かれた『伊勢物語』の解説書(明治刊のもの)。乾飯が涙で「ほとび」たことについては、古来言及がある。 

この他にも、平安時代の歴史書や文学作品に、この食品に関する記述が見られる。もっともメジャーなものとしては、歌物語として知られる『伊勢物語』(10世紀頃成立)の、通称「東下り」の場面がある。古典の授業で読んだことのある人もいるだろう。

 

「その沢の木の蔭(かげ)に降り居(ゐ)て、乾飯食ひけり」
「みな人、乾飯の上に涙落として、ほとびにけり」

 

主人公の一行は、東国へ旅する途中で、(馬から下りて)木蔭に座って、「乾飯」を食す。今風に言えばランチタイムだ。このとき、そばにいたある人に促されるかたちで、主人公の男が、長年連れ添った、都に残してきた妻のことを和歌に詠む。すると、その場にいた人すべてが、「乾飯」の上に涙を落として、(乾飯が)ふやけてしまった、というのだ。少々出来過ぎた大げさな表現で、平安時代流のジョークだが、こうしたジョークが成り立つ背景として、当時の人々が携行食として日常的に水(または湯)に「乾飯」をもどして食べるということが行われていたことがわかる。

 

「かれいひ」、時空を超えて宇宙へ


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平安時代から存在した「乾飯」は、武士が登場するようになると軍事食として用いられるようになり、近代では古来の製法に改良が加えられた“アルファ化米”が、戦時中に開発された。そして、今でも原理としてはほぼ同様のものが、非常食、保存食として親しまれているのだ。このようにアルファ化米は、昨今の防災意識の高まりとともに自治体などに備蓄されるようになったほか、宇宙開発の場でも、国際宇宙ステーションにおける宇宙食として用いられているという。宇宙食の絶対条件である、軽量である点、長期保存が可能な点、簡単な調理で済む点、そして何よりもおいしい点など、すべてがアルファ化米の特長と合致しているのである。
アルファ化米の例のほかにも、古来伝わってきた技術や製法が意外と理にかなっており、現代の我々の食生活や最新の科学の場にも用いられることは意外と多い。「焼米」や「粥」など、奈良・平安の時代から伝わる加工食品は、米に関するものに限っても多くの種類がある。これらのものも、再び見直される時がるかもしれない。

 

弥生時代には日本全国に広まり、日本人の主食として愛されてきたお米ですが、人々がお米と共に歩んできた道は、決して平たんではありませんでした。そんなお米づくりに向き合ってきた人々の努力を知っていますか? 今回は、イネの品種改良に人生を賭けた2人の活躍を紹介します。お米が食べられることが当たり前ではないことを知れば、今日のごはんがもっと美味しくなるかもしれません。


イネが育たない恐怖

もともと、中国の長江中・下流域の水辺で栽培が始まったとされるアジアイネは、熱帯気候を好みます。日本は雨が多く、真夏には日中の最高気温が熱帯地域と同じくらい高くなる日があります。日本は稲作に適した環境だったのです。稲作が日本に渡って来て、急速に広まったのはこの気候がひとつの理由だと言われています。

しかし、天候に恵まれず先人たちは何度も苦しい思いをしました。特に人々を苦しめたのが冷害です。イネが育つために大切な時期である夏に気温が上がらず、イネが育たなかったり、受粉がうまくいかなかったりする被害に合い、米不足に悩みました。江戸時代中期(1782年~1788年)にかけて発生した天明の大飢饉では、冷害によって米を中心とした農作物の収穫が激減し、6年間で約92万人の人々が命を落としたと言われています。

運命のイネとの出会い

「冷害に強いイネがあれば」それは多くの人々の願いでした。冷害の原因のひとつである火山の噴火。火山灰が広がる真っ暗な空の下、イネが陽の光を浴びられない姿を見て人々はきっと何度も震えたことでしょう。

少しでもお米を安定的に供給するために、多くの人々がイネの品種改良に努めました。その中のひとりに阿部亀治がいます。亀治は、明治30年(1897年)に新水イネ種“亀の尾”を誕生させました。これは、“ササニシキ”や“ひとめぼれ”等のルーツとなった品種です。

冷害に苦しむ中、亀治が運命のイネと出会ったことをきっかけに“亀の尾”は生まれました。山形県庄内にある熊谷神社にお参りに行った亀治は、冷害でほとんどのイネが実らずにいる中で、元気に実を結んだ3本のイネ穂を偶然に発見します。亀治はこれを農家に譲ってもらい、この籾を原種として研究を重ね、失敗にも屈さずに4年の歳月をかけて“亀の尾”を誕生させたのです。

“亀の尾”の特徴は、他の品種と比べて茎が長くしなやかで、風害に対して倒伏しにくいことや、冷害や病気に強く、穂が出てから実るまでの期間が短いことです。亀治はその後も、実ったイネから優秀なイネ穂を毎年選び出し、種の劣化を防いだそうです。また、“亀の尾”の噂を訊いて尋ねてくる百姓に、亀治は金や欲にこだわらず、この種もみを無償で分け与えたと言います。

品種改良に情熱を注いだ『品種改良の父』

“亀の尾”誕生後の明治36年(1903年)より、日本では本格的に米の品種改良が始まりました。日本が近代国家への道を歩む過程で、農作物の生産力の増大が重要課題となり、その年、国立の農事試験場で品種改良に力を入れる方針が定められたのです。それを受け、米の品種改良に取り組んだのが、農事試験場の技師だった加藤茂苞(しげもと)でした。

それまでは、もともとあった米の品種の中から、優れた特性をもつ株を見つけて一カ所に集め、その種を栽培していき最後に一番優れた種を残す『分離育種法』によって品種改良を行っていました。しかし、この方法では狙ったイネの特性を出せないことが課題でした。
そんな中、加藤は世界で初めてイネの人工交配に成功。人工交配によって優れた品種同士を組み合わせる『交雑育種法』の基盤が作られました。加藤は約25年に渡り品種改良に取り組み続け、数多くの新品種の創出を指導し、のちに『品種改良の父』と呼ばれるようになります。

『交雑育種法』によって日本で初めて作られた品種が、大正10年に育成された“陸羽132号”です。この品種は寒さに強く、当時の東北地方で広く栽培されました。農学校の教師であった詩人宮沢賢治も“陸羽132号”の普及に努めたといわれています。現在でも『交雑育種法』は品種改良の主流となっています。

このように、阿部亀治や加藤茂苞を始めとした多くの人々の熱い想いと努力によって、より自然災害に強く、より美味しいお米が次々に開発されていきました。新しい品種を生み出すためには交配を何度も繰り返す等の作業が必要なため、ひとつの品種と認められるようになるまで最低でも10年間の試験期間を要します。それにも関わらず、これまで日本国内だけで700品種を超える米の品種が開発されてきました。そして現在、この中の約300品種が、全国で栽培されています。

今、わたしたちが食べているお米も人々の努力が積み重なって生まれたものなのです。

◆参考文献・サイト
・今野賢三『イネの新品種の創選者阿部亀治』日本出版社
・櫛淵欽也監修『日本のイネ育種』農業技術協会
・農林水産省HP『特集1 食の未来を拓く 品種開発(1)』
 http://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1111/spe1_01.html