今では私たちの食卓に欠かせないお米ですが、約3000年前まで日本人はお米を知りませんでした。お米が日本にやって来るまで、日本人はどのような生活を送っていたのでしょうか。そしてどのようにしてお米は日本にやって来て、なぜ日本人に愛されるようになったのでしょうか。


 

 

 

お米が日本にやって来るまで


日本にお米がやって来るまで、日本人はどのような生活を送っていたのでしょうか。
何万年も前、旧石器時代の日本人はナウマン象などの大型動物を獲って食料としていました。大型動物が食料の中心であったため、一カ所に定住することなく獲物を追って東へ西へ移動しながら暮らしていたのです。しかし、縄文時代に入る約1万年前、地球温暖化により氷河期が終わります。このことによって、日本の環境は大きく変化しました。暖かくなり雨が多くなった大地には、木の実を実らせる落葉広葉樹が増加しました。また、ナウマン象をはじめとした大型動物が姿を消し、木の実を食べるシカやイノシシといった比較的小型で敏速に動く動物が姿を見せるようになりました。小型動物が中心となったため、狩りをするのは難しくなったのに、食べられる肉の量は減ってしまったのです。これに対応するため、動きの速い動物を捕まえるための弓矢がつくられる等、狩猟道具が進化しました。また、肉以外の食料を確保するため、クルミやクリ等の堅果類を採集し主食として食べるようになりました。木の実は灰汁(あく)があるため、煮炊きしたりして料理をする必要がでてきました。そうして生まれたのが土器です。土器の発明によって、料理だけでなく食料の保存も可能となりました。
縄文時代に入り、食料の変化と調理道具の発明によって日本人の食生活はより豊かになったのです。

 

 

日本でお米を食べるようになったのはいつ?


そんな日本でお米が食べられるようになったのは約3000年前、縄文時代後期だと言われています。縄文時代の遺跡である福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、土器に付着した籾の圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄、水流をせき止めて調整する柵(しがらみ)等が発見されています。
日本人が3000年間もの期間にわたって育てているお米、ジャポニカ種の祖先となるアジアイネ。日本に渡って来たこの稲の原産地は中国の長江中・下流域と言われています。
そんなアジアイネと稲作技術が日本へ渡って来た経路については、数多くの説がありますが、例えば、中国の江准地帯(長江・准河の間)から朝鮮半島南部を経て伝わったとする説、長江下流部から直接九州に伝わるか、朝鮮半島を経由して日本に伝わったとする説、中国南部からいったん沖縄にはいり琉球列島を北上して南九州に伝わったとする説などがあります。
中国から日本にやって来て、縄文時代後期に一部地域で育てられるようになった稲ですが、日本の気候に適した作物であったことや、堅果類に比べて安定した量を収穫ができる上に長期間の保存が可能であったことなどから、弥生時代には堅果類に替わる主食として全国各地で育てられることとなりました。
稲作は共同作業で行わなければなりません。稲作の普及をきっかけに、人々は集団での定住生活を本格的に始めました。そして、各地でリーダーが生まれ、それぞれが役割を分担してムラを運営することとなりました。稲作の伝来は、日本人の食に留まらず、ムラそしてクニづくりにまで影響を与えていったのです。