美しく凛と咲く「ヒガンバナ」が農家の天敵から田畑を守る!

higanbana1

 昼夜の長さが同じになる秋分の頃、川沿いや道端、田んぼや畑の畦道に、赤いヒガンバナが咲いているのをよく見かけるようになる。秋分を中日とした7日間を「秋の彼岸」というが、ヒガンバナはその名の通り、彼岸の頃に咲く花だ。「曼珠沙華(マンジュシャゲ)」とも呼ばれるのは、それぞれ「曼」は美しい、「珠」は赤い・赤色の、「沙」は燃えるような・華やかな、「華」は花のことで、「天に向かって咲く赤い花」という意味をさす。おごそかに美しく咲くヒガンバナが、前述したように“田んぼや畑の畦道”でよく見かけられるのには、実は理由があったのだ。

 

非常食や薬としても活用されてきたヒガンバナの根

higanbana2

「美しい花には棘(とげ)がある」ということわざがある。美しいものには他を傷つける一面があるという意味だ。ヒガンバナには棘はない。さらに花が咲いている間は葉もないという珍しい植物でもある。しかし、注目するべきはその土の中。根茎(球根)部分には植物に多く含まれる有毒成分アルカロイドの一種であるリコリンが含まれ、誤って口にすれば死に至るほどの強い毒性を持っているのだ。

驚くべきは、そのように強い毒を持つにも関わらず、救荒植物(飢饉や戦争などで食料が不足した時の食糧となるもの)にもされてきたこと。江戸時代頃まで、根茎を数日間水にさらして毒抜きをし、でんぷんだけを取り出して非常食にしていたのだ。また、鱗茎の部分は「石蒜(せきさん)」という生薬名で薬にも用いられている。

 

一見可愛い小動物も、土の中では厄介者

農家の天敵といえば、様々な動物を思い浮かべるだろう。近年、イノシシやシカなど大型の動物が田畑を大いに荒らし、農家を困らせている。カラスなどの鳥類や、モグラやネズミ、イタチなどの小動物による被害は、昔から長い年月を経てもなお問題となっている。

higanbana3

今では絶滅危惧種となっている種類も多い「モグラ」は、昔はあちらこちらにいた。といっても、私たちがなかなか目にすることができない土の中に、だ。ネズミ科に属されているモグラは、モコモコとした毛質で可愛らしく見えるが、「穴掘り名人」と呼ばれるように大きな手でどんどん土を掘り、あちこちにトンネルを作っている。1匹のモグラが暮らすトンネルの長さは70〜300mともいわれるそうで、地中はさながら迷路のよう。モグラが通ると地表もボコボコに、地中はスカスカに。よって、田んぼの畦道が崩壊してしまったり、農作物の根っこが傷ついたり、せっかく苗が生長しても根を張ることができずに根枯れや株枯れを起こしてしまうのだ。

 

これだけの穴掘りには、相当のエネルギーが必要。それを補うために食べるエサの量は、60kgの人間でいうと白米のごはんを1日約200杯分にも相当するとか! 大食漢のモグラの大好物はミミズ。土にとっていい働きをしてくれるミミズも食べ尽くされてしまっては、畑の土も元気が無くなってしまう。モグラのこの習性が農家にとっては困りもの。まさに「モグラ叩きゲーム」のように、地表にひょっこり顔を出したモグラを捕まえたり、地中に竹製のワナを仕掛けたり、モグラの優れた嗅覚をつくためにニンニクを土に埋めたり……農家もさまざまな手立てを講じて、モグラの被害に立ち向かっている。

 

 

日本の原風景に彩りをそえるヒガンバナ

higanbana4▲熊本県山鹿市の番所地区では、美しい棚田とヒガンバナが生み出す昔懐かしい風景がひろがる。

 

そこで先人たちが利用したのが、ヒガンバナの有毒性。そもそも、イネの伝来とともに中国から日本へ伝わったともいわれているヒガンバナ。根が河原の土手や田んぼや畑の畦道をしっかりと固めてくれる、雑草を駆逐してくれる、土の中の小動物や虫を寄せ付けない、というさまざまなメリットから、昔から積極的に川沿いや土手の法面、畦道に植えられてきた。モグラやネズミの被害に困り果てていた農家も、こぞって田んぼや畑の畦道にヒガンバナを植えていたのだという。ちなみに、墓地でもヒガンバナを見ることが多いのは、根の有毒性や臭いを使って虫や動物から遺体を守るためだともいわれる。その由縁からヒガンバナを「死人花」「幽霊花」などと呼ぶ地域もあるようだ。

 

ヒガンバナの特長を生かして先人たちが広く植え続けた結果、今日私たちが見ることができる“日本の秋の風景”がある。やがて稲が黄金色に染まると、真っ赤なヒガンバナとのコントラストがさらに美しく、ノスタルジックな情感とともに私たちの目を楽しませてくれるだろう。

 

参考文献:
『草木名の語源』鳥影社(2018年)
『ただ生きようと花は咲く』ルックナウ(2013年)
『現代農業2018年5月号』農文協

 

参考サイト:

ヒガンバナ | 日本薬学会
https://www.pharm.or.jp/flowers/post_4.html

ヒガンバナ Lycoris radiate (L' Hér.) Herb. - 城西大学
http://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-05470277-57(9)-52.pdf

 

商人が農民をねぎらうためにはじまった、250年以上続く「八朔祭」

hassakumatsuri1

九州のほぼ真ん中に位置する、熊本県上益城郡山都町(やまとちょう)。その町名が示す通り「山の都(みやこ)」であったこの地には、江戸時代中期から約260年続く「八朔祭(はっさくまつり)」という祭りがある。近年では9月の第一土曜・日曜日に開催され、第一金曜日夜の「前夜祭」にはじまり、土曜日には商売繁盛を願って「七畝稲荷御神事」、五穀豊穣を願って「豊作祈願際」が執り行われ、地域の小中学生による鼓笛隊やみこしなどが町中を賑わせる。目玉は、日曜日の「大造り物」の引き廻し。毎年県内外から多くの観光客が見物に訪れ、地元の連合組が総力を結集してつくりあげた雄大な大造り物に魅了されるのだ。

 

藩政時代の街道・日向往還の宿場町として栄えた町

八朔祭が開催されるのは、山都町役場がほど近い浜町商店街と呼ばれる場所。慶長17(1612)年、肥後国の氏族である阿蘇氏が管理していた愛藤寺城(あいとうじじょう)が幕府の命により破却された際、城があった愛藤寺町から数人の商人が移り住み、商店を構えるようになったのが、ここ「浜町」とされている。当時、熊本から宮崎の日向、延岡に至る日向街道の道筋に当たっていたこともあり、地域の経済圏の中心地として栄えた歴史もある。

江戸時代中後期、浜町にある小一領(こいちりょう)神社には氏子によって行われる「豊年地踊り」という芸能があった。豊年地踊りをする人たちや浜町の商人たちが、農家の日頃の苦労をねぎらい感謝するために、酒や肴を用意してもてなしていたのが、八朔祭のはじまりといわれている。造り物については、商人が農家の人たちを楽しませるために作ったという話や、雨乞い祈祷に際して作ったという説もあるが、人々の目を楽しませてくれる精神や五穀豊穣への想いは、現代においても変わりなく続いている。

 

年々進化する大造り物の引き廻しが圧巻

hassakumatsuri2▲地元の熊本県立矢部高校の大造り物は、「森を荒らすモンスターを捕獲!!」とイノシシをテーマにした迫力のある作品。ススキや枯れ枝などを効果的に使って表現している。

時代とともに祭りの形も変化し、現在では各連合組で大掛かりな大造り物が制作されている。モチーフにしているのは、世相を風刺したものや商人や農民も含めた私たち庶民の願いをダジャレと交えて表現したものなどさまざま。日曜日の午後からはじまる大造り物審査では、祭り本部で審査員の審査を受けて受賞が決まる。各連合組では金賞を目指し、6月頃から題材を決めたり、大まかなイメージを描いたりすることから始め、大造り物を制作する「小屋」と呼ばれる作業場で、1〜2ヶ月間制作に打ち込むのだ。

 

八朔祭の大造り物には、山野に自生する自然の素材を使うのが決まり。杉の枝を打ったり、萩を乾燥させたり、細かい装飾に必要な松ぼっくりを拾ったりと、材料集めも苦労する作業のひとつ。さらに、切ったり、磨いたり、柔らかくしたりと、加工作業もとても手間のかかる工程だ。大きいものになると高さ5m、長さ7mほどにもなる大造り物は、材木や竹などを使った土台となる骨組みの制作、紙や麻布、シュロ紐やベニア板、金網などを使った下地づくりなど、体力はもちろん根気がいる作業が続く。皆、自分たちの仕事の合間をぬっての制作となるため、本番が近づくと夜通し作業をするところも多く、ほとんどの大造り物は祭り前日の夜から当日の朝までに完成するのだとか。完成した大造り物は、その雄大さはもちろん、趣向を凝らされた細部の装飾にもじっくりと目を向けたい。

 hassakumatsuri3▲祭り初日の土曜日の朝には、各連合組ごとに決められた展示場所へと設置。ゆっくりと間近に見ることができる。

 

hassakumatsuri4▲テーマと連合組名を掲げた旗のあとに、三味線や太鼓で軽快な八朔囃子を奏でる車が大造り物を先導。

 

hassakumatsuri5▲大造り物が登場すると、見物客から歓声が上がる。ここまでに要した時間や労力の賜物だと想像すると、皆、心からの拍手をおくるのだ。

 

hassakumatsuri6▲祭り本部がある『やまと文化の森』の広場で、大造り物の作品紹介や思いなどを見物客や審査員に伝える。

 

hassakumatsuri7▲祭り本部までに至る道中は、大造り物にとって障害物の連続。長い竿を持った数人の勢子が、電線や木の枝などを避けながら、ゆっくりと進む。

 

hassakumatsuri8 1

hassakumatsuri8 2▲2019年度最優秀賞の金賞を受賞した下市連合組の大造り物。「消費税増税あわふく国民」というタイトルで、阿波踊りの踊り手たちを表現。阿波踊りの掛け声「エライヤッチャ」という声が聞こえてきそうな躍動感溢れる作品だ。着物の部分にはホオズキがぎっしりと貼られ、美しい模様となっている。

 

農家が豊作祈願を行っていた「八月朔日」

祭りの名前にもある「八朔」とは、八月朔日のことで旧暦の8月1日のことを指す。全国的にこの日に農家が豊作祈願を行う風習があるが、この地域も同様。古くから8月1日の早朝に豊作を祈って田んぼや耕地の畦や水口にお神酒を捧げる「作(朔)廻り」というならわしがあった。この作廻りの途中に知人に会うと御酒を汲み交わすこともあったという。

八朔祭も、もともとは8月1日に行われていたので、この名がついたのだろう。ある連合組の方に話を聞くと、「この日は年に一度、御上から許された“ガス抜き”の日だと聞いたことがあります。日頃は質素倹約に暮らしていた時代、この日だけは音を出して賑やかに過ごしてよかった」のだとか。商人たちが農民たちをねぎらいながら、自分たち自身も楽しんで過ごす。古来続く風習が、地域のコミュニケーションを促しながら長年にわたって結束を深めてきたのだろう。だからこそ、250年以上経った今、人手や後継者不足という問題に直面しながらも、地域の人々の強い絆の中で、この八朔祭を成立させているのだ。

 

hassakumatsuri9▲浜町商店街から歩いてすぐの場所にある「通潤橋」。水に恵まれなかった近隣の田畑へ水を通すための水路橋として、国の重要文化財に指定されている。現在は地震による復興工事中。

 

以前まで、八朔祭に合わせて浜町商店街のすぐそばにある日本最大級の石造りアーチ水路橋「通潤橋」の放水が行われていたが、2016年の熊本地震で被害を受けたため、それ以後放水を中止している。それでもその威風溢れるたたずまいは、訪れる人々の心を掴んでいる。祭りのフィナーレで打ち上げられる花火に照らされる通潤橋の姿も必見だ。

祭りが終わると、大造り物は浜町商店街一帯に1年間展示される。祭りのタイミングに訪れることは難しくとも、浜町を歩きながらそれぞれの大造り物に込められた願い、継承されてきた技術と進化し続ける大造り物の醍醐味をぜひ感じてもらいたい。

 

◆開催日程

八朔祭

毎年9月第1土曜日、日曜日

場所:熊本県上益城郡山都町下市周辺

この記事の情報は2019年のもの

 

参考資料:

『矢部町史』ぎょうせい(1983年)

山都町観光文化交流館(やまと文化の森)展示資料

 

参考サイト:

【八朔祭】2019年大造り物展示場所はこちらから! / 観光ナビ / 山都町

https://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp/kanko/kiji0035607/index.html

 

さまざまな地域で伝承される、稲の生育を見守る「田の神様」

jyuurokudango1

全国にある「田の神信仰」。春に欠かせない花見に田の神様との結びつきがあった、ということも触れたが、田の神様にまつわる伝統行事は他にもいくつかある。そもそも、「田の神様」とはなにか。今も伝わる行事やそれぞれの地域で伝承される「田の神信仰」などをもとに、私たち日本人の祖先が長年大切にし、伝えてきた田の神様について紹介したい。

 

神様をお迎えする「十六団子の日」

jyuurokudango2

東北地方の多くの地域には、旧暦の3月16日に16個の団子をつくってお供えする風習がある。これは、毎年春になると稲の成長を見守るために山から下りてくるという田の神様を迎え、五穀豊穣を祈るもの。

田の神様は杵と臼で餅つきする「トントントン」という音を聴いて山から下りてくる、とも伝えられ、この日についた餅でつくった16個の団子を供えることから「十六団子の日*」と呼ばれている。また、十六団子の日は、田の神様が山へ帰る日とされている秋の旧暦10月16日にも行われる。春から秋の間、田を見守ってくれる神への感謝と祈りを捧げる日なのだ。
*2019年の十六団子の日は4月20日。東北以外の地方では、旧暦の2月16日田の神様を迎えるところが多い。

 

「田の神様」は山から下りてきた「山の神様」?

jyuurokudango3

春になると、山の神様が田の神様となって里や田に下りてきて、秋になると山へ帰って行くーー。

このような話は、祖先の時代から現代に至るまで伝承されてきた。民俗学者である柳田國男氏が提唱した学説でもあり、それが定説化しているとも言える。

では、「山の神様」とはなにか。その礎となるのは、稲作が伝わるよりも前、縄文時代に狩猟・採取を営んでいた山や森での生活であった。やがて弥生時代となり水田稲作を営むようになっても、山と森の恵みに依存して生きてきた祖先は、古くから山の恵みに感謝するとともに、山への霊威や山の神々を心から畏れ敬ってきたという。

『山の神と日本人』の中で著者の佐々木高明は、

山の神は本来、狩猟や焼畑を営む山民の神で「主(ぬし)として山を支配する神」であり、山の霊威を象徴する神であること。山の神・田の神の去来伝承は、水田稲作民のもとで形成された観念や習俗であって、その成立の背後には、焼畑農耕から水田稲作への生業形態の変遷のプロセスがあることを述べている。

jyuurokudango4

焼畑民にとっての山の神様は、もともと山の中のどこにでも存在するものと考えられていたが、なかには特定の場所を祭りの場(聖所)として鎮まり、土地神化する山の神様が現れてくる。そうなると、神様はその聖所と焼畑耕地の間を去来するようになる。山の神様は山中の聖所から焼畑耕地に来てとどまり、作物の実りを見守り、収穫が行われ収穫儀礼を終えると再び山中の聖所に帰ることになっている、という。

このような山の神様の聖所がある地域において、谷間や平野部に稲作水田が作られるようになると、焼畑耕地と同様に、聖所から里や田に降臨して稲の豊作を司る神となり、その役割を果たすと山に帰るようになった。
焼畑民の稲作民化にともない、各地でこのような考えが発生していったと考えられている。

 

「年神様」と交替したのが「田の神様」?

田の神様は山の神様だったという説がある一方、地域によっては「田の神様は年神様だ」という伝承も残っている。「年神」とは、お正月にお迎えしその1年の無病息災、多幸をお祈りする大事な神様だ。

jyuurokudango5
『田の神・稲の神・年神』の中で著者の藤原 修氏は著書の中でさまざまな地域における「田の神去来伝承」を紹介している。

例えば、岩手県東磐井郡大東町(現:一関市)旧中川村日陰には、

「正月十八日に、カネと称して栗の木に小判のような形をした餅を十二個つけた。夜年神様に魚・米・御神酒の供え物をして、次の朝、それをさげて庭に飾ってあるマユッコに、小豆粥にしてあげる。その時、年神様は田の神に変わる」

という伝承が残る。
これは、いわゆる春になると山の神様が田の神に替わるという伝承とおなじように、年神が田の神に交替する、というものだ。


さらに岩手県紫波郡紫波町南日詰には、
春の段階では

旧暦2月9日は年神様がツトメを追える日で、この日から3月16日まで休む。
3月16日は農神おろしで、年神様がおりて農神様となる。
それでこの日は小豆餅か小豆団子を作る。
朝どこよりも早く杵の音をとんとんさせた家に農神様が入ってこられるので、この家の作はよいといいならわされている。(途中一部省略)

また、秋の段階では

旧10月16日は農神あげで、この日農神様が山の神様に替わるので、餅をついて小豆餅と胡桃餅をつくり、山の神おでァる(迎える)といってこれを丼に一杯盛って神棚に供える。
—中略—
旧12月27日に山の神はお年神様になる。それでこの日はお年神のおふだを神棚にはり、サカナをつけたお膳だてをし、酒を供え、これを七日間つづける。そして2月9日には前にいったようにお年神さまはそのツトメを終えるのである。

という伝承が残る。
年神がツトメを終え田の神様(農神)に。秋に農神が山の神に替わり、12月27日に年神に替わり、ツトメを終えるとまた田の神になるのだという。
まさに、前述の「十六団子の日」の習わしを裏付ける伝承が、(特に東北地域に)数々残されているのだ。

jyuurokudango6

全国で古くから信仰されている“山の神・田の神の去来伝承”に関しては、数多くの学説・仮説があり何かひとつを答えとして示すことはできない。
地方によっては、年神様をご先祖様と考える信仰もあるため、「田の神様はご先祖様」という考え方もできるのかもしれない。

田の神様が何であるかーー。というよりも、稲作の始まりから終わりまで、さらに農作業の途中過程において、それぞれの地域の伝承・風習において迎えられ送られる神様なのだ。

柳田氏の言葉を借りると、田の神は「稲作の豊穣を祈り祭る神。農神」(出典:『民俗学事典』)であることは変わりなく、先祖代々実りへの祈願と感謝を捧げてきた、私たち日本人の信仰心が作り上げたものなのかもしれない。

参考文献:
『田の神・稲の神・年神』岩田書院(1996年)
『山の神と日本人』洋泉社(2006年)
『暮らしのならわし十二か月』飛鳥新社(2014年)

田の神様を勧請する“田歌”の歌い初め「踏歌節会」

tautautaizome1

国の重要無形民俗文化財に指定されている「阿蘇の農耕祭事」は、熊本県阿蘇市にある阿蘇神社、ならびに国造神社などで行われる一連の祭りをさす。毎年7月に執り行われる『御田植神幸式』(以下、おんだ祭)では、神輿を担ぐ駕輿丁(かよちょう)たちが歌う田歌が、青田の稲穂を揺らすように阿蘇の大地に響き渡る。この田歌、実は歌うことができる期間が決まっている。旧暦の正月の「踏歌節会(とうかのせちえ)」が歌い初めで、おんだ祭の神事で歌い、その後「柄漏流神事(えもりながししんじ)」で歌い納めされるのだ。今回、阿蘇神社の田歌の歌い初めとなる踏歌節会を見学した。

 

駕輿丁だけが歌える特別な歌

tautautaizome2

旧暦1月13日にあたる日の朝、阿蘇神社の拝殿にはおんだ祭の神輿を担ぐ駕輿丁たちが集まっていた。これから、今年初めての田歌を歌うための神事が始まるのだ。祝詞があげられ、代表者による玉串拝礼などが粛々と進み、最後に田歌が歌われる。


ここで歌われるのは「正月殿」。御田歌集を特別に見せてもらうと、その一節に

   ショ グワチ ドノニ マ イル
ホヘ カドノ マツガ タ カイ


と書かれていた。しかし、実際に歌おうとすると

 ウンホーホゝヘヘン へへへゝンヘイ 
 ショ グワチ ドノニ マ イル(正月殿に祭[まい]る)
 ウンホーホゝヘヘン へへへゝンヘイ 
 カドノ マツガ タ カイ(門戸の松が高い)
 (一部出典・参考:本田安次「阿蘇宮の祭歌」『日本古謡集』)

このように、独特の節がつき、信心深い気持ちになるから不思議だ。それもそのはず、田歌は田植えの際に、田の神様の来臨を願うために歌われるもの。まるで田の神様に、今年一年のはじまりの挨拶をするかのようなとても尊い時間だ。


阿蘇神社での歌い初めが終わると、阿蘇神社の宮司である阿蘇家へ向かい同家の座敷で「御所鶏」を歌う。

tautautaizome3

   △繁来連(はられ)繁来連と謡へや   △御所の鶏
  御所ハ何所御所(どのごしょ)南の  △御所の庭鶏
  御所の庭鶏音(ね)を出し      △兼(かね)て貢供(ぐぐ)めく
  御所を憚(はばか)り小坪の内で   △謡へ庭鶏
 △は「ホーホゝヘヘンヘイヘイ」
 (一部出典・参考:本田安次「阿蘇宮の祭歌」『日本古謡集』)

歌詞を文字にするとこれだけだが、実際に歌うと独特の節回しで実に30分近く要する。その歌詞を覚えることはもちろん、一文字を歌うのに幾つもの音程があり、3〜4つある節を覚えるということは、とても容易なことではない。
駕輿丁たちは、踏歌節会、おんだ祭にむけて、練習を積み重ねていかなければならない。特に、「頭(かしら)が歌えないと話にならない」と言われ、他の駕輿丁たちが歌わなくなるとか。そのため、駕輿丁のリーダー達は、より一層の練習に励まなければならないのだ。

 

阿蘇神社における踏歌節会の歴史

「踏歌」とは、その字のごとく足を踏み鳴らして歌い舞うもので、中国から伝わった集団歌舞。日本では宮中儀礼として年中行事の正月十六日の踏歌節会となったが、阿蘇神社でもこの行事を採用。この節会で、神人と供僧(ぐそう)と楽所(がくそ)が豊作を祝して踏絵を舞ったとされている。


朝廷での踏歌節会は男踏歌と女踏歌に分かれており、男踏歌は早くに途絶えた。女踏歌は一時途絶えたが江戸時代に再興、幕末まで行われたという。阿蘇神社での節会は中世末に絶えた。

江戸時代半ばの『肥後國誌』によると、「正月13日は福祭」とあり、「権大宮司に大宮司、社家、神人、巫、神子が参列し神楽などを奏した」とある。この席に招待された者達が披露したのが、正月を祝う田歌だった。御田の4基の神輿を担ぐ駕輿丁の頭4人が阿蘇宮の神前で「踏歌節会」と称して田歌の歌い初めを行った。やがて、駕輿丁の頭だけが社前で行っていた田歌の歌い初めを、駕輿丁たち全員が参列するように。また、権大宮司で行われていた福祭は、社家制度の廃止により阿蘇神社の宮司宅に変更され、今日の踏歌節会に至っているとされている。

tautautaizome4▲例年7月28日に阿蘇神社で行われるおんだ祭の神幸行列の様子(国造神社の御田祭は7月26日開催)

現在は駕輿丁だけが歌うが、かつては阿蘇では誰もが歌える身近な歌だったという。おめでたい意味合いの歌詞も多く、阿蘇地域では、結婚式や住宅の棟上げ、還暦や米寿といったお祝いの席でも歌われることがあるそうだ。次に私たちが田歌を聴けるのは、7月に開催されるおんだ祭。おごそかな田歌の響きと長きに渡って伝承されてきた農耕儀礼を、目と耳と心に、焼きつけて欲しい。

参考文献:
『神々と祭の姿 阿蘇神社と国造神社を中心に』一宮町(1998年)

370年の想いを受け継ぐ五穀豊穣の舟歌神事「ホーランエンヤ」

日本各地には豊作を祈願するさまざまな祭りが残っているが、その中でも知る人ぞ知る珍しい祭りがある。「ホーランエンヤ」と呼ばれるこの祭りは、島根県松江市で10年〜12年に一度行われる祭りで、なんと9日間に渡って行われる日本でも珍しい祭事だ。

370noomoi1出典:総務省ホームページ(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/furusato/digital/detail/id/kyo/7_839

ホーランエンヤは日本三大船神事に数えられる神事で、大規模な船団を繰り出して五穀豊穣を祈願する祭りだ。松江には宍道湖、中海という大きな水瓶があり、そこを繋ぐ大橋川および意宇川(いうがわ)に絢爛豪華な何艘もの船が歌と踊りを披露しながら行き交う。そのホーランエンヤが来たる2019年5月18日から開催されるので、それに先立ちこの祭りにどのような歴史があるのか、また見どころはどこか、などをご紹介しよう。

 

ホーランエンヤの起こりは江戸時代

ホーランエンヤは漢字で書くと「宝来遠弥」もしくは「豊来栄弥」と書くが、これは「城山稲荷神社式年神幸祭」という祭りの行事の一つだ。その起こりは慶安元年(1648年)にまでさかのぼり、当時は出雲国(いずものくに)と呼ばれていた地で大規模な凶作が起こったことに由来する。

当時の松江藩主 松平直政公がこの凶作を鎮める五穀豊穣の祈願を行うため、松江城にある城山稲荷神社からご神体を船に載せ、意宇川の途中にある阿太加夜(あだかや)神社まで運んで祭礼を行ったのが最初だ。その後も10年〜12年周期で定期的に行われる祭りとなり以後370年に渡って続いているが、その伝統は地元の有志によって受け継がれている。

 

ホーランエンヤには「櫂伝馬(かいでんま)踊り」と呼ばれる独特の歌と踊りがあるのだが、それは代々経験者によって後世に語り継がれてきたものだ。ホーランエンヤの継承は、開催期間が長く空くことや、途中戦争や災害などの発生によりこれまでずっと順調だったわけではない。前回開催時の経験者からうまく伝えられるかどうかが問題だったが、それでも熱意ある地元の人々の思いによって現代まで受け継がれてきたのだ。そういった人々の熱意も、この祭りで体感することができるだろう。

 

神様とともに川を往来する9日間

ホーランエンヤは全体で9日に渡って執り行われる祭りで、「渡御祭」、「中日祭」、「還御祭」の3つの行事に分かれる。

370noomoi2出典:総務省ホームページ(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/furusato/digital/detail/id/kyo/7_839

2019年の日程では「渡御祭」が5月18日(土)、「中日祭」が5月22日(水)、「還御祭」が5月26日(日)で、それぞれの日程で特別な行事が行われる。中日祭は阿太加夜神社境内での7日間の祈祷が行われ、その中日に踊りが奉納される。だがそれより大きな見どころは、渡御祭および還御祭で奉納される、船団による櫂伝馬踊りだ。

櫂伝馬踊りは手漕ぎの船の上で執り行われる歌と踊りの神事で、大橋川沿いの次の5つの地区がそれぞれの地区に代々伝わる櫂伝馬船を繰り出す。これらの地区にはそれぞれ違う踊りと歌が代々伝わっており、順番に流れてくるそれぞれの船がそれぞれの櫂伝馬踊りを披露する。

370noomoi3出典:総務省ホームページ(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/furusato/digital/detail/id/kyo/7_839

またその5隻の周りには大小様々な100隻以上の船が取り巻き、豪華な大船団を作り上げて大橋川と意宇川を練り歩く。そして観客はその大船団を川のほとりや大橋川にかかる橋の上から見物するのである。

 

櫂伝馬踊りは五船五様

ホーランエンヤの最大の見所、それは何よりも各地区の櫂伝馬踊りの踊り手と歌い手だ。

370noomoi4出典:総務省ホームページ(https://www.chiikinogennki.soumu.go.jp/furusato/digital/detail/id/kyo/7_839

櫂伝馬踊りは昔から各地区の有志によって伝えられてきたもので、その多くは口伝や経験者からの教育で行われてきた。櫂伝馬踊りをメインで踊るのはその地区の小学生や中学生と決められており、ホーランエンヤが開催される数年前から厳しい特訓を重ねて櫂伝馬踊りを体得するのだ。

櫂伝馬踊りという名前の通り船の櫂を持ちながら踊る踊りは勇壮で、各地区の違いを見てみるとよいだろう。また歌も地区ごとに独特で、「ホーランエンヤ」の歌声とともに船に乗る全員が一体となって歌い上げる。この歌もまた代々受け継がれてきたもので、こちらもぜひ聞き比べてみて欲しい。

 

櫂伝馬船は渡御祭で松江市中心部から阿太加夜神社まで1日をかけて移動をし、還御祭でまた戻ってくる。その間松江の中心分は普段の静かな町とはがらっと変わって賑やかになり、ホーランエンヤと前後してさまざまなイベントや催し物も開催される。10年〜12年ごとという他に例を見ないほど長いスパンで行われる祭りなので、10年のうちで最も松江が盛り上がる時期と言ってもよいだろう。長い人生のうちで10回も観ることは出来ないホーランエンヤ。ぜひこの機会に松江に来て、五穀豊穣を願い続け、舞われてきた勇壮な踊りと大船団の往来する姿を堪能してほしい。

 

◆開催日程

日程:2019年は5月18日(土)、22日(水)、26日(日)

ホーランエンヤ2019 公式ホームページ

https://www.ho-ran2019matsue.jp/index.html

 

okomeno
mozi rekishi mozi tane mozi bunka mozi hito mozi hito mozi huukei mozi noukamuke

もち米、玄米、古代米etc.…ちょっと変わったお米で醸す日本酒色々


土壌の肥沃さの目安、『CEC』とは?


管理栄養士が教える! 夏バテ予防抜群♪「サバを使ったマリネ」


なぜお米からフルーティーな日本酒が造れるのか?  お米の香りを引き出す酵母の知識


okomenoseiikuwo 3

お米の生育を左右する『リン酸』のあれこれ。可給態リン酸やリン酸吸収係数とは?