春の国民的行事のルーツとなる「桜」と「田の神様」とのつながり

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4月に入ると早い地域では桜が満開を迎え、これから開花という地域では春を心待ちにする高揚感で溢れている。4月の和風月名は、「卯月(うづき)」。卯(空木)の花から由来されるとも言われるが、稲の種を植える月であることから「植月(うつき)」、「苗植月(なえうえづき)」から転じたものだという説も。このような説からも分かるように、農事を由来とする名や行事、祭事は数多くある。実は、私たちが毎年行っている「花見」も、農事と結びつきのある行事だったのだ。

 

桜を咲かせたのは田の神様だった!?

公園や桜の名所と呼ばれるような場所などでは、桜の開花とともにいたるところで「花見」と称する宴が行われている。花が咲く木は数有れど、木の下に人が集い宴を開くのは、恐らく桜の木の下だけだろう。なぜ、「桜」なのか。

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桜(サクラ)の語源には諸説あるが、「サ」は、田の神様を意味し「クラ」は神様が座る場所という意味だという一説が。その背景には、「田の神様が桜の花を咲かせて、種をまく時期を私たちに教えてくれている」「田の神様は、桜の開花とともに人里へ降りてきて私たちを見守り、花が散ると帰って行く」という信仰が古くからあったからだ。人々は桜の花が咲くと、田の神様を迎えるために桜の木の下で料理や酒を用意してもてなし、豊作を祈願。そして人々も一緒に料理や酒をいただいていた。それが、今に続くお花見の由来だったのだそう。

 

お花見で見る「花」は、桜だけではなかった

「田の神様」への宴と考えられているほかに、もともとは穢れを祓うために山野へ出掛ける儀式や、豊作を祈るための儀式として山に入り「山の神様」に捧げるお酒などで宴を催していたという起源説もある。こういった行事から、次第に宮中などで“花を愛でながら詩歌を詠む遊び”へと変化。奈良時代以前には、「花」といえば梅だったが、平安時代には桜の人気が高まり、多くの桜をテーマにした和歌が詠まれ「花」といえば桜、といったイメージが定着していくことになったのだ。

庶民にまでお花見の風習が広まったのは、江戸時代。幕府が桜の植樹を奨励したことから桜の名所が増え、また、江戸後期には染井村(現:東京都豊島区駒込)の植木職人がエドヒガンとオオジマザクラを交配させた“ソメイヨシノ”を売り出し、明治以降には学校や公園、河川敷に植えられた。現代ではいちばん良く目にする桜の種類となっている。

 

関東と関西で異なる『桜餅』の生地とカタチ

桜の開花の時期に、よく見かけるのが『桜餅』。あんが入った餅を、塩漬けした桜の葉で包んだもの。ほのかな桜の香りと滋味深い味わいは、春の訪れを感じさせる和菓子だ。

さて、「塩漬けした桜の葉で餅を包む」というとても斬新な方法は意外なきっかけから生まれたという。江戸時代、前述のように徳川家が桜の名所を作ろうと奨励を出していた頃。隅田川沿いの長命寺で門番をしていた山本新六は、春になると桜の葉の掃除に大変苦労していた。なんとか再利用できないかと考えていた時、桜の葉を塩漬けにして、餅巻き販売したところたちまち評判になったという。小麦粉などの生地を焼いた薄い皮に餡を包んだもので、江戸では「長命寺」「長命寺餅」と呼ばれ、関東ではこの時の形が今でも主流となっている。

 

その頃、京には元々道明寺粉(もち米を蒸して乾燥させ、粗挽きしたもの)を使った桜餅が存在していたが、明治に入って関東の桜餅が伝わってくると、椿の葉に代わって桜の葉を使うようになり、関西風桜餅が誕生。「道明寺」「道明寺餅」として親しまれている。

harunokokumin3▲手前左側が関東風の長安寺、右側が関西風の道明寺。出身地域の見た目に慣れていると、そのカタチと食感の違いに最初は驚くかもしれない

もうお花見は済んだという人も、これからという人も、桜を見上げる時には、「もしかしたら田の神様が咲かせてくれたのかもしれない」「この木に神様が座っているのかもしれない」と、想像してみて欲しい。桜の木の下で食べるおにぎりやお弁当、はたまた清酒をはじめとしたお酒もまた、田の神様からの恵みで美味しく食べられているのだ。そんな風に考えると、いつもより一段と桜の花が美しく輝いて見えるかもしれない。

 

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参考文献:

『和のくらし・旧暦入門』洋泉社

『日本の七十二候を楽しむ』東邦出版

参考サイト:

お花見|暮らし歳時記
http://www.i-nekko.jp/nenchugyoji/ohanami/

桜餅|暮らし歳時記
http://www.i-nekko.jp/gyoujishoku/haru/sakuramochi/index.html

全国和菓子協会 | 和菓子ものがたり | 和菓子を知る | 和菓子の由来
https://www.wagashi.or.jp/monogatari/shiru/yurai.php

桜もちの歴史 – 桜の食文化300周年委員会
http://sakura300.sub.jp/history/

土をいじってはいけない日!? 土地の神様を祀る『社日』。

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「立春」や「春分」といった二十四節気や5月5日の端午をはじめとする五節句以外に、季節の節目となる「雑節」。その雑節のひとつ、春分の日、または秋分の日に最も近い戊(つちのえ)の日を『社日(しゃにち)』と言う。今では祝日となっている「春分の日」や「秋分の日」が馴染み深く、社日を知らないという方も多いかもしれない。雑節は日本の気候風土、主に農作業に合わせた季節の目安であり、社日もまた、昔から私たちの生活に欠かせないものなのだ。

 

春は土地の守護神へ豊作を祈り、秋には収穫を感謝する

1年に2回おとずれる『社日』。春の社日は春社(しゅんしゃ・はるしゃ)、秋の社日を秋社(しゅうしゃ・あきしゃ)と言い、春にはその年の五穀豊穣を祈り、秋には稲穂をお供えして収穫に感謝する風習が古くからある。


社日を祝う習慣は中国から来たと言われており、「社」は土・土地の神の意味。日本では古くから自分の土地の神様=産土神(うぶすなかみ)を大切にする文化があったため、社日の風習は広く信仰されることになったそう。

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春分と秋分のそれぞれに近い戊の日を社日と定めていることも、この「土・土地の神」であることが関係している。「戊」の日は五行説に基づく十干(じっかん)のひとつで、これもまた中国から伝来されたものだ。十干とは、万物は木、火、土、金、水の5種類の元素からなるという考えに、それぞれ兄(え)と弟(と)に分けたもの。「戊」は、五行説で「土(兄)」(つちのえ)にあたり、山のように動かない土を意味することから、土の神を祀る日に選ばれたとも言われている。

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このような由来から、社日に土をいじると土地の神の怒りにふれると、土をさわることを避ける風習があり、農作業を休むことも。とはいえ、春の社日は種まきの時期として、秋の社日は収穫の時期として、農業をなりわいとしてきた私たち日本人にとって、とても大事な1日なのだ。

 

地域で異なる土地ごとの神様を祝う行事

上述のような風習から、春の社日には米、麦、豆、粟、稗(ひえ)または黍(きび)の五穀の種を供えて豊作を祈ったり、「地神講」、「社日参り」といった行事が行われる。福岡県の博多では「お潮井」と呼ばれる箱崎浜の真砂を竹かごに入れて持ち帰り、玄関先に下げたり、建物や土地のお祓い、田畑の虫よけとして撒いてお清めしたりという風習も。長野県小県郡では、土地(田)の神様が春に山から里へ降りてきて秋になるとまた山へ帰ると考えられ、社日には餅をついてお祝い。京都府の一部では、朝早くから東にあるお寺や地蔵をお参りして日の出を迎え、その後順を追って南〜西へお参りをして日の入りを見送るというならわしも。産土神様の数だけ、社日を祝い感謝する行事はさまざまだ。

 

雨が降る? 耳がよくなる?『春の社日』にまつわる伝承

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産土神様を祀る行事の他に、春の社日にはさまざまな言い伝えがある。「春の社日にお酒を飲むと、耳の聞こえがよくなる」として、この日に飲むお酒のことを治聾酒(じろうしゅ)と呼ぶ。「春社にお参りをすると中風(脳卒中)にかからない」など、身体に関する伝承も。また、「春の社日にはよく雨が降る」ことが多いことから、この日の雨を社翁(しゃおう)の雨と呼ぶそう。


今年の春の社日のお天気はいかがだろうか。土や空を見ながら産土神様のことを少し意識してみると、自然と密接に関わっていた祖先の気持ちにちょっと寄り添えた気がしてくる。

参考文献・サイト:
『暮らしのならわし十二ヶ月』飛鳥新社
『和のくらし・旧暦入門』洋泉社
暮らし歳時記
http://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/zassetsu/shajitsu/

日本文化研究ブログ
https://jpnculture.net/syanichi/

日本文化いろは辞典
http://iroha-japan.net/iroha/A05_zassetsu/04_syanichi.html

人々が幸せを求めた稲荷神社の「初午祭」には、稲作の神様との深い結びつきがあった

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春の足音が聞こえ出す立春の頃、全国の稲荷神社では「稲荷詣でをする参拝客で賑わいを見せている。2月最初の午(うま)の日に行われる祭礼「初午(はつうま)祭」だ。今から1300年ほど前、2月の最初の午の日に京都の伏見稲荷大社に祭神が降臨したことから、この日に稲荷神社で祭礼が行われるようになったのがはじまりだそう。「稲荷神」とは字のごとく「イネナリ神」とも呼ばれ、稲作や農業の神様を表す。農事との結びつきもとても深かった「初午」の日とは、どのようなものなのか。

 

キツネは稲作の神様だった!?

商売繁盛、家内安全、さらには開運も……さまざまな祈願がなされる稲荷神社のお祭り「初午祭」だが、元々は春先の農事の初めに田の神様を山から里へ移し、五穀豊穣を願う行事であったそう。

「稲荷神」「お稲荷さん」とも呼ばれている稲荷神社の祭神は、穀物に宿る神、土地の神、米稲の倉庫を守る神、お米の神といった、農耕に関わる神と考えられてきた。信仰の象徴として諸説あるが、私たちの生活に欠かせない神様として民間信仰と結びつき、のちに農業だけにとどまらず、産業や工業、商業などさまざま開運を司る神様として広まったと言われている。そういった背景から、初午祭に参る参拝者が多いのだ。

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稲荷神社といえば、キツネの石像を思い浮かべる人は多いだろう。なぜキツネなのか。稲荷神社の総本山「伏見稲荷大社」によると

「稲荷大神様」のお使い(眷族[けんぞく])はきつねとされています。但し野山に居る狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。そのため白(透明)狐=“びゃっこさん”といってあがめます。

勿論「稲荷大神様」はきつねではありません。

 

とのこと。 

そのほか、稲荷大明神は日本神話に登場する宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)*という神様で、食物を司る大御膳神(おおみけつのかみ)とも呼ばれることから、キツネの古い呼び方である「けつ」を重ね合わせ、この「みけつ」に「三狐神」という文字を当てたという説も。

民俗学者の柳田國男氏は、古来日本人は、春になると人里に姿を現し、収穫が終えた秋には山へ帰るキツネの姿を山の神・田の神のお使いであると認識した、と指摘している。古くから稲作や農業と切っても切れない人間の生活の中で、自然とキツネが神様のお使いとして人々のイメージに浸透し、信仰されてきたのだ。

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*古事記では倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と記されている

 

東西で違ういなり寿司の形。三角はキツネの耳、四角はなんの形?

「稲荷」と聞くともう一つ思い浮かべるのは「いなり寿司」だ。キツネの皮の色に似た油揚げを、稲荷神社に備えて願掛けをするようになったのが江戸時代。(キツネの好物とされているのが油揚げだが、野生のキツネは食べないそうだ)

油揚げの中に、農耕の神である稲荷神がもたらしてくれたごはん(すし飯)が詰められ、稲荷神にまつわる2つの食材から誕生したのがいなり寿司なのだ。

地域によって形や詰められるものが違うが、主に関東では油揚げを四角に切って、米俵に見立てた「俵形」に。関西では油揚げを対角線に三角に切って、キツネの耳に見立てた「三角形」にするところが多い。いずれも、稲荷神への信仰が反映された格好だ。

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いなり寿司のほか、初午には初午団子を作って食べる地域も。また栃木県を中心とした北関東一体などでは、「シモツカレ」「スミツカリ」と呼ばれる大豆、大根、人参、塩鮭の頭などを煮込んで藁苞(わらづと)に入れて供えていただく習慣もある。栃木県では、昔から「初午の日に七軒の家のシモツカレを食べると中風にならない」と言われ、近所の家々にもふるまうことがあるそうだ。

 

古くから稲の神様として民間信仰と結びつき、全国へ広まった稲荷神社は約3万社あるとも言われる。長い間私たちにとって身近で「お稲荷さん」と親しまれきたことから、初午の日には地域独自の習慣や食事の作法など数多くあり、さまざまな願いを叶えてくれる万能の神様ともいわれるほど。それでも、もともとは五穀豊穣を祝い、田の神様を迎え入れたことから始まった祭礼。そんなことに想いを馳せながら初午の日にいただくいなり寿司は、いつもと味わいが違うはずだ。

 

参考文献・サイト

『子どもに伝えたい食育歳時記』ぎょうせい(2008)

『年中行事読本』創元社(2013)

伏見稲荷大社

http://inari.jp/about/faq/

「いなり寿司」の豆知識 | 三越伊勢丹の食メディア | FOODIE(フーディー)
https://mi-journey.jp/foodie/19658/

新潟県津南町に伝わる、伝統の小正月行事『鳥追い』とは?

皆さんの地域では『小正月』(1月15日)にどのような行事が行われるだろうか? 『どんど焼き』や鏡開きなど、昔から伝わる行事があちこちで行われるが、稲作をする農家にとっては豊作祈願の行事が欠かせない。筆者の生まれ育った新潟県は全国に誇る米どころ。稲作に関する民間信仰を調べていたところ、新潟県南部に位置する津南町に古くから伝わる『鳥追い』という小正月の行事があることを知り、訪れた。

 

田んぼの鳥を追い払う子どもたちの歌

「米作りに関係する行事なら、うちの集落でもやっている『鳥追い』があるよ」と教えてくれたのは、津南町の知人である。どんな行事なのかと尋ねると、「夕方、子どもたちがスゲ帽子をかぶり、歌を歌いながら集落内を歩く。神社や公民館まで行くとかまくらがあり、夜にはそこでお菓子を食べる」ということだった。

歌やかまくら、そして夜更かしが、一体稲作とどのような関係があるのだろうか? と疑問に思い、資料をあたってみた。津南町史によると、鳥追いは津南町で古くから行われている小正月の行事で、もともと『田んぼにやってくる鳥を追い払う』という趣旨のものであるらしい。

1月14日の夜、集落の子どもたちはスゲでつくられた三角の帽子をかぶり、拍子木を打ち鳴らしながら鳥追いの歌を歌って歩きまわる。かまくらに到着すると、中でお菓子などを食べながら皆で夜を過ごすが、時折かまくらの外に出て鳥を追い払うために歌うことを繰り返したという。小正月と合わせ、お米づくりの成功を願うための大切な行事だった。

niigatatorioi1▲鳥追いで使用するスゲでできた帽子。通称『スゲ帽子』

 

かつては町内のあちこちで行われていた鳥追いだが、少子高齢化につれて数は減り、現在はいくつかの集落に限られるという。また、内容を一部簡略化したり、日付を週末にずらして続けているところが多いようだ。現在の鳥追いがどのようなものかをこの目で確かめるため、2019年1月12~13日に津南町内の2集落を訪れ、行事の様子を見せていただいた。

 

形を変えながら続く、現代の『鳥追い』

12日に訪れたのは、津南町役場周辺の大割野(おおわりの)集落である。町の中でも特に商店が多く立ち並ぶエリアだ。夕方、集合場所の役場を訪れると多くの人が集まっていた。地元の方に集落の鳥追いの歴史を聞くと、「大割野集落の一部で続いていた行事だが、子どもが減ったため、昨年から大割野集落全体でやるようになった」という。

時間になると、子どもたちにスゲ帽子と拍子木が配られた。スゲ帽子は町の観光協会から借りたものだというが、新品らしく、替えたばかりの畳のようないいにおいがする。

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合図とともに子どもたちの行進が始まった。大割野集落では、子どもが鳥追いの歌を知らないということで、スピーカーで歌のCDをかけながらのにぎやかな歩みである。拍子木を鳴らしながら集落内の道を右へ左へ歩き回る。子どもが家の前を通ると、屋内から人が出てきてお菓子を渡していた。『夜にかまくらで食べる夜食』という意味だそうだ。

例年豪雪に見舞われる津南町であるが、この日の前後は雪が降らず道路も非常に歩きやすかった。とはいえ、集落の神社まで1時間近く歩くと、子どもたちにも若干の疲れが見えてくる。先導する軽トラックの荷台には各家庭からもらったお菓子がたくさんだ。

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ゴール地点の神社には、子どもが10人ほども入れそうな大きなかまくらができていた。慣なれないスゲ帽子から解放された子どもたちは、境内で雪合戦をしたり、かまくらに入ったりと実に楽しそうであった

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受け継がれる『鳥追い』の文化

翌日の夜に訪れたのは、津南町役場から4㎞ほど離れた卯ノ木(うのき)集落。筆者に鳥追いの情報をくれたのはこの集落に住む知人である。卯ノ木ではかまくらをつくることはやめてしまったものの、子どもたちが鳥追いの歌を歌い、提灯を下げながら集落内を回った。『あの鳥どこから追ってきた、信濃の国から追ってきた』から始まる鳥追いの歌が、独特のメロディで響く。長野県との県境にある津南町らしい歌詞だ。

子どもたちの歌と拍子木の音を聞き、集落のご老人が家から出てきた。お菓子を差し出しながら、「懐かしくて涙がでそう」と笑顔で話しかけていた。「子どものころ、夜になっても友達とかまくらで遊べる鳥追いは、本当に楽しい特別な日だった」という人もいた。今の子どもたちにとっても、生まれ故郷の特別な思い出として、しっかりと記憶に残っていくにちがいない。

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津南町には今回訪問した以外にも鳥追いを行っている集落がある。他の集落ではかまくらをつくるだけだったり、スゲ帽子を使わなかったりと、少しずつ形を変えて鳥追いが続けられているそうだ。起源である『鳥の追い払い』としての側面が薄れ、子供が楽しむ行事になりつつある鳥追いだが、自然と野生動物の中で稲作をしてきた津南町だからこそ今も大切にされている伝統なのだろう。

 

参考資料:
津南町史 資料編下巻

文:小野塚 游(オノヅカ ユウ)
“コシヒカリ”の名産地・魚沼地方の出身。実家では稲作をしており、お米に対する想いも強い。大学時代は分子生物学、系統分類学方面を専攻。科学的視点からのイネの記事などを執筆中。

願いを込めたわら細工で七夕様とつながる「七夕綱」

tanabatatsuna1“七夕”と聞くと、誰もが笹の葉に短冊が吊るされた光景を想像することだろう。今回紹介する「七夕綱」は、限られた地域で行われている行事で笹の葉は登場しない。使用するのはわら(藁)。一本の綱にいくつものわら細工の飾り物をつけ、川をまたぐように張られるのだ。一度は途絶えたこの風習を復活させた、熊本県南部に位置する八代市坂本町の木々子(きぎす)地区を訪れた。

 

扇、卵、亀、鶴、人形……。見事な手仕事に感嘆

tanabatatsuna28月6日、朝8時になると木々子地区のお堂に多くの人たちが集まっていた。「トントントントン……」と、堂内に響くわらを叩く小気味良い音。わら細工をするために、100回以上叩いてわらを柔らかくしていく。地区の女性陣が、わらを持ちどんどんと編み込んだり、形成をしたりと手際よく作業をし、亀、鶴、わらじなどを創り出して行く。

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小さい時からわらを編んで草履を作っていたという、妙子おばあちゃんはわら細工の名人。おしゃべりに花を咲かせながらも、手元を動かし次々に細工物を作っていく。正月に飾る注連縄も自分たちで作るという女性陣は、皆がわら細工の先生だ。

子孫繁栄を願うという「卵」は、必ず13個作るのが決まり。昔疫病が流行っていたということがあり病気を「とおさん(十三)」という意味が込められているそう。

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「鶴」や「亀」は縁起が良いもの、「馬」はみんな上手く行きますように、など意味や想いが込められたわら細工は14種類ほど。細工物はこれを作らないといけないという決まり事はないが、草履は鼻緒を立てない未完成のものを作り「手仕事が上手になりますように」という願いが込められる。

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毎年この日は見学者を歓迎し、わら細工を体験できるなど、賑やかな笑い声が集落にこだまする。そのため、他に飾りつけるわら細工は、事前に2日間をかけて集落の人たちで集い作っているという。そこには、織姫や彦星の人形、船、タコやヤモリ、馬など、手の込んだ飾り物も多数。それだけでも見応えは十分だ。
 

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50年の時を経て復活した「七夕綱」

「文献に残された記録だと、昭和9年までは、毎年七夕綱をやっていたそうです」と話すのは、『八代七夕綱保存会』会長の久保田さん。久保田さんのお父さんが老人会会長をしていた当時、老人会で何かやれないかと考えていた所、旧坂本村の官報に「七夕綱」の文字を見た。「これはなんだ?」と思い調べてみると、昭和9年までは青年団が主体となって七夕綱を継承していたという。その後中断をしていたのだが、昭和59年、老人会の活動として復活し、保存を続けてきた。

平成27年、木々子地区以外の地域でも伝承される七夕綱と合わせて『八代・芦北の七夕綱』として、「国選択無形民俗文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形文化財)」に登録。それを機に、保存会を設立し現在に至っている。

現在木々子地区には22戸、24世帯が住む。以前は美しい棚田があり、住民のほとんどが米づくりを主体とする農家だったが、60年程前の大水害の被害で田畑などが壊滅、風景の変化とともに米農家も減っていったという。

tanabatatsuna11▲『八代七夕綱保存会』会長の久保田さん。今木々子地区でお米を作っているのは、久保田さんを含め2軒。「わらはどこにでもあるが、七夕綱で使うわらは、木々子のわらでないと」との強い思いもあり、お米づくりを続けている。

 

織姫と彦星が出会うための綱? ご先祖様が帰ってくるための綱?

10時30分頃。わら細工の作業も終わり、皆お堂を出て、綱をわたす中谷川の方へ降りて行く。橋のたもとには、事前に作られていた飾り物もスタンバイ。綱に飾り物を付けながら、地区の住民は「今年もよろしくお願いします」「みんなが元気に過ごせますように」とお願い事を唱える。それはまぎれもなく、短冊に書く願い事と同じだ。

tanabatatsuna13▲外れないようにしっかりと、想いを込めて結ぶ

tanabatatsuna14▲八代市内の支援学校の生徒たちと一緒に作ったわら細工。子ども達の願いも添えられる。

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飾り物が付けられた約40メールの綱を天高く上げ、電柱に括り付けるのはかなりの大仕事。地区の男性陣が命綱をつけ(つけていない達人も!)電柱に登って綱を張り渡す。

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川を挟み、集落の入り口に張り渡された「七夕綱」。なぜ綱を張るのかと言うと、この綱を渡って織姫と彦星が出会うため、疫病が入ってこないようにするため、ご先祖様がこの綱を渡って帰ってくるため、など、様々な言い伝えがあるようだ。木々子地区では約1ヵ月間飾り、八朔(9月1日)の日に降ろす。

短冊に綴る個人的な願いももちろん構わないが、五穀豊穣を祈り、疫病や伝染病が起きないようにと、地域が一体となって願う「七夕綱」もとても尊いものだと感じる。半世紀を超えて復活し、30年以上伝承されている地域の大事な行事を、体感することをおすすめしたい。

tanabatatsuna17▲1ヵ月、集落の入口に張られる「七夕綱」。一つひとつの細工を見て眺めるだけで楽しい。

tanabatatsuna18▲綱を張り巡らせた後は、地域のお母さんたちが作るごちそうを囲んで交流会。愛情たっぷりの料理を頬張りながら、「七夕綱」についての話も尽きない。


◆開催日程
八代市・木々子地区の「七夕綱」
毎年8月6日
場 所:熊本県八代市坂本町中谷
この記事の情報は2018年のもの
※葦北郡芦北町の「七夕綱」開催場所・日時は、
 芦北町生涯学習課(0966-87-1171)へお問い合わせください。

参考資料・サイト:
『坂本村史』坂本村村史編纂委員会(1990年)
八代・芦北の七夕綱(国選択)八代市観光情報
http://www.city.yatsushiro.lg.jp/kankou/kiji0032438/index.html

 

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