我が身を犠牲に農民を救った!? 天草初代代官・鈴木重成

suzukishigenari1

紺碧の海に囲まれた、熊本県天草地方。16世紀に日本でいち早く南蛮文化が伝わりキリスト教が普及。天草・島原の乱が起こるなど歴史的な文化が刻まれてきた場所だ。2018年には、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一つとして天草市の崎津集落が選ばれ、注目を集めている地域でもある。ここ天草で約360年前、困窮を極めた島民たちを重い年貢徴収から救った男がいた。今回は「鈴木さま」として今も市民から慕われている『鈴木重成』について紹介したい。

 

三河国で生まれ育ち、大坂で上方代官を任せられる

『鈴木重成』は、天正16年(1588年)三河国(現愛知県東加茂郡足助町)に、有力な武将・鈴木忠兵衛重次の三男として生を受ける。別家となった兄たちに代わり33歳で父の跡を継いだのち、文武両道に優れた重成は徳川将軍家に評価され、41歳の時に大坂(現大阪)の上方代官を任命される。

suzukishigenari2

そんな中、寛永8年(1631年)に農民による隠し田(かくしだ)が発覚。隠し田とは隠田(おんでん)ともいい、農民が年貢の徴収を逃れるために、ひそかに耕作した水田のこと。いわゆるこの集団脱税に怒った京の伏見奉行は、男女全員を死罪に処するよう命令。この時、重成の長兄である鈴木正三*1が「女まで処刑するとは言語道断。永遠に禍根を残す。命がけで助けよ」と重成を激励。重成は、大坂から京まで人を立てて、伏見奉行へ助命嘆願状を送り続け、ついに女性だけを助けることができたという。

*1鈴木正三・・・重成の長兄、正三(まさみつ)。徳川家康・秀忠二代に直接仕え、42歳の時に出家し名を正三(しょうさん)とする。独創的仏教思想家として重成とともに天草の復興へ尽力した。

 

 

天草・島原の乱の総大将『天草四郎』と同じ時代を生き、戦った

suzukishigenari3

重成が大坂で上方代官を務めていたのと同じ頃、幕府によるキリスト教の禁教令により、天草ではむごたらしいキリシタン迫害が行われていた。さらには重い年貢徴収や飢饉もあり、島民たちは困窮を極めていた。

天草の島は広いわりには耕地が少なく、農産物の収穫量もそう多くはない。当時の生産高は2万石程度。それが当時天草を支配していた唐津藩主・寺沢氏によって、実際の生産高の2倍、4万2千石が天草全島の石高(こくだか)*2とされていたのだ。その頃の年貢は、収穫の4割を年貢で納め、6割が生産者の取り分とされていたため、農民に何も残らない状態であったのだ。

寛永14年(1637年)10月、このようなむごたらしい弾圧と過酷な徴税に反乱し起きた一揆が「天草・島原の乱」だ。当時16歳という若さで一揆軍の総大将となった天草四郎については、ご存知の方も多いだろう。3万7千人の民衆を率いて12万人幕府連合軍に挑み続けたが、翌年2月に一揆軍は全滅。天草四郎は斬首され、戦いは終結した。

*2石高……収穫した米穀の数量。太閤検地以降、江戸時代を通じて地租改正まで広く行われた公式の評価単位で、玄米の生産高で示される。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

suzukishigenari4

この天草・島原の乱の時、重成は松平信綱率いる幕府連合軍にいた。乱の後、幕府は重成を現地にとどまらせ、天草・島原の復興を命じたという。寛永17年(1640年)、幕府は天草島の直接統治に乗り出し、初代代官として重成を迎えた。

乱で苦しみ死んでいった農民たちの姿を見てきた重成は、将軍・徳川家光にこう建言したという。

「…天草は孤島であり、しかもその大部分は山地で(耕地が少ないため)生産力が弱いにも関わらず、税だけは他所並みというのが実態であります。あの者たちが一揆に及んだのは、何もキリシタンの教えを信じたためばかりではありません。実にやむを得ぬ事情があったものと思われます」

(魚沼国器「鈴木明神伝」(文化8年、原漢文))

重成は、天草島の再建計画「亡所開発仕置(ぼうしょかいはつしおき)」を力強く推進していく。

 

 

幕府へ訴え続けた“石高半減”。そして重成の覚悟

suzukishigenari5

さまざまな復興計画を実施し、島民からの信頼を少しずつ得ていた重成。その結果、人口が増え、収穫も上がり出し、島の人々にも心の落ち着きが戻り始めていた。しかし、なおも島民を苦しめていたのが、重い年貢の徴収。重成は調査を行い、「従来の4万2千石という石高は間違いだ、2万石がやっとだろう」と考え、幕府へ繰り返し陳情した。

「石高半減を実現しなければ、また大きな悲劇を繰り返すだろう。天草は永遠に救われない」すべては、天草のため、幕府のためでもあった。嘆願を繰り返すことは非礼極まりない行為。重成は切腹覚悟で嘆願を繰り返し、ついに承応2年(1653年)10月、自分の身を投げ出してまで願いを請うたのだった。

 

これには、幕府も驚いた。通例であれば、このような事態は公儀への反抗であるとお家断絶となるところだが、幕府は「病死」とし、重成の子・重祐を跡目に継がせ、重成には法名を贈る特別な待遇が行われたという。次の代官に選ばれたのが、重成の甥であり養子であった鈴木重辰(しげとき)。重成を慕っていた島民の怒りを鎮めるためにも、血のつながった関係者を立てた格好だ。重成の自死から1年半後、明暦元年(1655年)6月に、天草天領二代目代官・鈴木重辰が誕生した。

重辰は重成の思いを受け継ぎ奔走し、万治2年(1659年)に、ついに“石高半減”を実現した。重成が命をかけた願いが実を結んだのだ。

 

苦境の時代を立ち上がってきた先人たちの思いを胸に

suzukishigenari6

suzukishigenari7

▲天草市本町にある『鈴木神社』。

 

天明7年(1778年)、鈴木重成、重成の兄であり重成に助言を続けてきた鈴木正三と、石高半減を実現した鈴木重辰を合祀して『鈴木神社』(天草市本町)が建立された。天草の人々は、各地で重成を祀りいつまでも慕い続けている。

suzukishigenari8

▲天草市の中心市街地に建立された、重成、正三、重辰の“鈴木三公”の像。

 

しかしその後の研究で、「重成が自ら命を絶った」という歴史的史実は無いようだ、また、正確には寺沢氏時代の天草の石高は3万7千石であり、それが2万1千石に減らされたので“石高半減”ではない、などいう見解も出てきている。

伝承として天草の人々の中で伝わってきているとはいえ、今の豊かな天草の礎となる一因を築いたことには間違いないだろう。「鈴木さま」と愛され敬われる鈴木重成や、苦しい時代を精一杯生きてきた祖先に思いを馳せながら、今日の穏やかで豊かな日々に感謝したい。

suzukishigenari9▲『鈴木神社』がある天草市本町の田園風景。稲が元気よく成育している姿は当たり前のような景色だが、先人たちが支えてきた暮らしや智恵によるものだ。

 

参考文献・サイト:

『天草を救った代官 鈴木重成公小伝』鈴木神社社務所(2002年)

『天草鈴木代官の歴史検証―切腹と石半減その真実―』天草民報社(2006年)

なごみ紀行 ふるさと寺子屋No.039「天草を救った鈴木重成公」

https://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=039&pre_page=2

 

okomeno
mozi rekishi mozi tane mozi bunka mozi hito mozi hito mozi huukei mozi noukamuke

もち米、玄米、古代米etc.…ちょっと変わったお米で醸す日本酒色々


土壌の肥沃さの目安、『CEC』とは?


管理栄養士が教える! 夏バテ予防抜群♪「サバを使ったマリネ」


なぜお米からフルーティーな日本酒が造れるのか?  お米の香りを引き出す酵母の知識


okomenoseiikuwo 3

お米の生育を左右する『リン酸』のあれこれ。可給態リン酸やリン酸吸収係数とは?