新田開発に人生をかけた甲府代官・平岡和由/良辰父子

新田開発に人生をかけた甲府代官・平岡和由/良辰父子

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山梨県甲斐市竜王――。この地には、戦国時代に活躍した甲斐国の守護大名・武田信玄の指示によって築かれた『信玄堤』と呼ばれる堤防がある。この堤防が築かれたことで甲府盆地の水害が激減、江戸時代には大規模な用水路工事が行われて新田開発が活発になった。今回は、甲府盆地の新田開発に心血を注いだ甲府代官・平岡次郎右衛門和由(ひらおかじろうえもんかずよし)と、その子、平岡勘三郎良辰(ひらおかかんざぶろうよしとき)について、甲斐市富竹新田と北杜市明野町浅尾新田で取材を行った。

 

戦国期の大規模治水工事・甲州流川除法「信玄堤」と竜王河原宿

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甲府盆地西部は、古来、氾濫を繰り返す釜無川(富士川)により水害が多発しており、住民が定住するには不向きな地域であった。信玄は高度な治水技術により、見事に釜無川の氾濫を抑え込むことに成功した。

shindenkaihatsu3▲高台から望む信玄堤。画像左下の住宅密集地のあたりが『竜王河原宿』

 

1560年代には、信玄堤の管理や補修などを行う労働力を確保するため、堤防からほど近い場所に『竜王河原宿』が整備され移住者を募った。

shindenkaihatsu4▲竜王河原宿があった場所。租税一切免除という特典もあり、近隣から移住者が集まった

武田氏の滅亡後も、「竜王が甲斐国最大の水難場である」として竜王河原宿による川除体制が継続、信玄堤の機能が強化された。信玄堤は現代でも、『甲州流川除法(こうしゅうりゅうかわよけほう)』として、日本における河川工事の参考にされている。

 

竜王用水を引き込み荒れ地の開拓に心血を注いだ代官・平岡和由

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江戸時代に入ってもなお、堤防は竜王の地を水害から守ってくれていた。そこで、時の代官であった平岡次郎右衛門和由は、釜無川から用水路(竜王用水)を引き、過去の水害によって荒れ地と化していた富竹村(現:甲府市富竹)の北西部で入植者を募り、水田開発を行った。

shindenkaihatsu6▲右の石碑が信玄堤公園の脇にひっそりと建つ竜王用水の開削碑。富竹新田村の住民が和由を偲んで建立した謝恩碑である

 

用水路の完成が寛永14年、本格的な富竹新田の開発は寛永16(1639)年に着手。富竹村および富竹新田は幕府から租税(年貢等)を免除され、水田開発による発展の礎が確立されていく。そして富竹新田は、慶安5(1652)年[和由の没後11年後に、富竹村からの独立を果たすことになる。

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shindenkaihatsu8▲昭和47年(上)と平成19年(下)の富竹新田。現在では甲府市のベッドタウンとして宅地開発が進み、水田の多くが姿を消した(提供:国土地理院)

 

和由により、名取新田(現:甲斐市名取)や金竹新田(現:甲府市池田付近)などの開発も行われた。これらの新田地域では、昭和の時代が終わる頃までは稲作も盛んに行われていたが、宅地開発によって広大な水田は姿を消し、平成も終わろうとしている現在では家々の間に点在する程度にまで減少してしまった。

 

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▲左:現在、富竹新田の南部は国道20号(甲州街道)が貫いている。右:富竹新田に残る水田。宅地開発の進む現在も、昔からの農家が細々と稲作を続けている(撮影:2019年冬)

 

shindenkaihatsu11▲和由によって開削された竜王用水は、現在も現役で活躍している

 

和由が引き込んだ竜王用水はその後90年間、富竹新田村単独の用水路として活用され、享保13(1728)年には本竜王と竜王新町の2村が加わって組合を形成。さらに9年後の元文2(1737)年には篠原が加わり、四ヶ村の組合によって共同管理された(竜王四ヶ村堰と呼ばれた)。

 

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▲本竜王(左)と竜王新町(右)の水田。かつてはこのあたりにも広大な水田が広がっていた。往時の面影はなくなったが、現在も農家の努力によって稲作が続いている(撮影:2018年秋)

 

父の意志は子へ! 平岡良辰による浅尾堰の開削と浅尾新田村の開村

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平岡和由は寛永14(1641)年に没するも、代官職は、子・平岡勘三郎良辰に引き継がれ、父・和由が進めていた富竹新田開発の継続、茅ヶ岳山麓では『浅尾堰(あさおせぎ)』と呼ばれる用水路の開削、それによる浅尾新田(現・北杜市明野町)の開発などに尽力した。浅尾新田を含む周辺エリアは、現在でも県営の圃場整備が行われるなど山梨県有数の米どころとなっている。

しかし現在、『浅尾堰』という名前の用水路は存在していない。なぜならば、『朝穂堰』という呼称になっているからだ。朝穂堰の維持管理を行っている朝穂堰土地改良区事務所の篠原弘三理事長によると、「『浅尾』から『朝穂』と呼ばれるようになった正確な時期は不明ですが、明治時代の政令によって呼称が変わりました。ちなみに『朝穂』と書いて『ちょうほ』と読みます」とのこと。

 

浅尾堰の完成から70余年後の享保3(1718)年、浅尾新田から南へ1kmほどの場所にある『穂坂(現:韮崎市穂坂町)』という地域に『穂坂堰』という用水路が引かれたが、明治5年に発布された政令により、『浅尾堰』と『穂坂堰』が1本にまとめられた。いつの頃からか総称として『浅穂堰(あさほせぎ)』とも呼ばれるようになったが、現在では『朝穂堰』と呼ばれている。

shindenkaihatsu15 16▲左:朝穂堰土地改良区事務所を中心に朝穂堰の維持管理が行われている。右:浄居寺入り口に残る浅尾新田開村当時に建てられた石碑。『浅尾堰』や『穂坂堰』という文字が確認できる

 

shindenkaihatsu17▲「安全でおいしいお米を作るために農家は常に努力している。私たちはその努力が途切れないよう、安定的に水を供給する義務がある」と、語ってくれた篠原理事長

shindenkaihatsu18▲山梨県三大堰に数えられる朝穂堰は総延長22kmで高低差100mほどを8時間かけて流れている

 

取材の途上、浅尾新田の開村にともなって開山した『常牧山 浄居寺』に立ち寄り、当時の歴史に詳しいご住職にもお話を伺うことができた。「浅尾堰の開削や浅尾新田の開発では諸役免除の条件をつけて入植者を募り、現在の甲斐市北部あたりの山奥に住む住民を中心とした50家余りが入植したのです」。当時入植した家々の現在について聞いてみると、「子孫は現在でもこの地に定住しています。早い家ではすでに11代目を数えます」と、教えてくれた。他の家々でも9代目か10代目くらいにはなるのだそうだ。

shindenkaihatsu19▲朝穂堰開削の図。重機など存在しない当時、開削はすべて人の手によって行われた(提供:朝穂堰土地改良区事務所)

 

shindenkaihatsu20 21▲左:常牧山 浄居寺。右:浄居寺に安置されている平岡次郎右衛門和由と平岡勘三郎良辰の木像(提供:常牧山 浄居寺)

 shindenkaihatsu22 23▲左:浄居寺と右:朝穂堰土地改良区に建てられた朝穂堰改修の記念碑

 

朝穂堰は、昭和44年~52年に、国と県によって総事業費9億円以上をかけた大規模改修が行われた。この事業で老朽化による漏水も改善され、より安定的な水供給が可能になった。

 

自ら開発を指揮したそれぞれの地で祀られた和由・良辰父子

甲府市北部にある円光院には平岡一族の墓所がある。自らが水田開発に尽力した甲府盆地を一望できるこの地で、平岡次郎右衛門和由は眠っている。

shindenkaihatsu24 25▲左:円光院に建てられた平岡和由の墓。右:円光院の眼下には和由が開拓に尽力した甲府盆地が広がる

 

また、甲斐市富竹新田にある神明神社では、古社・水神宮とともに和由が祀られている。富竹新田開村の功を偲んだ住民によって、水神と和由の姿とを重ねて祀られたのだという。

shindenkaihatsu26 27▲左:神明神社脇の古社水神宮。右:水神宮には、『御免許 平岡次郎右衛門和由諸役除地厚恩之輩建立之』とある。和由による諸役免除の恩を受けて住民が記した感謝の意である

 

一方、浅尾新田の石塔庵跡地には、子・良辰の墓と供養塔が建てられている。戒名に使われている文字から『玄空さん』と慕われ、毎年春彼岸の時期には浅尾新田地区の行事として供養が続けられているそうだ。

shindenkaihatsu28▲平岡勘三郎良辰の墓。その功績は広く地元から偲ばれている

 

今回取り上げたのは甲府代官・平岡和由とその子、平岡良辰であるが、日本の長い歴史において、全国にもこうした『開墾のリーダー』があちらこちらに存在したであろうし、新田開発によって開かれた地域も多数ある。

もちろん、新田開発を成し遂げ、壮大なフロンティア精神で道を開いてくれた入植者たちの存在があったことも忘れてはいけない。領地の石高を上げるためという政治的な目的があったことも確かだが、一方ではそれによって住民側にもたらされたメリットもまた大きかった。

浅尾新田の例であれば、入植者のほとんどは山奥に住んでいた者たちである。土地の貧しい山奥に住んでいても子々孫々まで伝わる財産は残せなかったはず。並々ならぬ決意で新しい土地に移り住んだからこそ、肥沃な土地を後世にまで残すことができているのだ。

私たちが毎日あたりまえのように食卓で美味しいお米を口にできていることは、実は先人たちの努力の上に築かれた『財産』をいただいているのと同じである――。今回の取材をとおして、そんな感謝を再認識することができた。

 

参考文献:

『近世甲斐の治水と開発』

『ふるさと川ばなし 上巻』

『龍王村史』

『龍王町史』

『甲斐国志』

『山梨日日新聞発行 山梨百科事典』

『甲府盆地に残る虚構と真実』

『甲斐路と富士川』

 

取材協力:

常牧山 浄居寺

朝穂堰土地改良区事務所

 

文:小須田 こういち

山梨県在住のライター。地域の身近な情報から歴史、ペットといったテーマまで幅広く取材・執筆をこなす。農業生産者との対話を通した記事の作成も行っている。

 

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