豊作を願い、阿蘇の大地に響く田歌と200人の神幸行列

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私たちの祖先は古くから五穀豊穣を願い続け、全国各地で今もなお、多くの伝統的な農耕儀礼が伝承されている。熊本県にある阿蘇神社では、1年を通して稲作に関するさまざまな祭礼が行われていて、その一連の祭りは「阿蘇の農耕祭事」と呼ばれ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

暑さ厳しい7月の炎天下、半日をかけて青田を巡る阿蘇神社の『御田植神幸式』の行列を追いかけた。

 

神輿にお乗せした神様に、稲の育ち具合を見てもらう

通称“おんだ祭”と呼ばれる『御田植神幸式』は、毎年7月26日に国造神社で、7月28日に阿蘇神社で行われる。「阿蘇の農耕祭事」のなかの1つで、阿蘇神社最大規模の神事だ。

2016年の熊本地震で大きな被害を受けた阿蘇神社。国指定重要文化財の「神幸門(みゆきもん)」と「還御門(かんぎょもん)」も被災した。通常おんだ祭の時にだけ開門するというこの2つの門。今年(2018年)7月、2年の時を経て修復がほぼ完了し、神幸門から出発し、還御門へ帰る神幸行列を見ることができるようになった。

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▲元々拝殿や神殿があった場所は、現在復旧工事中で立ち入り禁止となっている。写真中央手前にあるのは、仮参拝所

 

仮拝殿で神事が執り行われた後、いよいよ神幸行列が出発。神幸門から整然と出てきたのは、田男・田女・牛頭といった農耕に関する人形を持った白装束の男の子たち。神様の食事を頭に乗せて運ぶ「宇奈利(うなり)」と呼ばれる女性たちや、神様を乗せた4基の神輿や馬が続く。脈々と続いてきた伝統的な風景に、思わず背筋を正す。

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▲一行は、11時30分に阿蘇神社を出発し、住宅街、田園地帯を練り歩き、17時にまた阿蘇神社へと戻ってくる。神様に稲の育ち具合を見てもらい、秋の豊作を祈願するのだ。

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▲残されている資料によると、神幸行列は13世紀末にはすでに行われていたそう。

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▲獅子に頭を噛んでもらうと、無病息災になるとか。宇奈利が持つ御膳を頭に載せると女性の病気にかからない、神輿の下を往復すると無病息災に、などさまざまな祈願も楽しみのひとつ。

 

空高く舞う稲。五穀豊穣の願いとともに

おんだ祭の見所のひとつが、神輿に向かって稲を投げかける“御田植え式”と呼ばれる行為。途中一の御仮屋、二の御仮屋と2カ所の御仮屋と阿蘇神社帰着後に行われる。まず御仮屋に到着すると、神輿を安置して神事。神輿を担ぐ「駕輿丁(かよちょう)」たちが田歌を歌う。田の神を勧請(かんじょう)するために、田植えの時に歌われる田歌。おんだ祭では、場所によって歌われる歌詞が決まっているという。まるで能楽を聴いているような、古きゆかしき田歌の調べを聴いていると、田の神への感謝、五穀豊穣への祈りが自然と湧き出てくるから不思議だ。

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▲おんだ祭前には、駕輿丁が集まり田歌の練習を十分に行う。田歌は一の御仮屋から歌われ、神幸行列は田歌に合わせて粛々と進んで行く。

 

神事の後、見物客にも配られ出した根っこが付いた青々とした稲。おんだ祭のために、特別に栽培されたものだそう。

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神輿の屋根の上にたくさん乗ると豊作、ということで、皆一生懸命投げかけるが、なかなかコツがいるようだ。なぜなら、4基の神輿は駕輿丁たちによってグルグルと風車の様に回っているか。しかも、スピードも速い。難しいからこそ、神輿の上に乗ると豊作と呼ばれるのだろう。

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▲一の御仮屋での“御田植え式”の様子

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▲阿蘇神社での“御田植え式”の様子。多くの見物客が稲を片手に合図を待つ。

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稲にはなぜ根っこが付いているのかというと、「持って帰って自分の田んぼに稲を植えると良いんだよ」と地元の人が教えてくれた。神輿に乗らず、落ちてしまった稲は、自分の田へ植えると虫がつかないと言われているそうだ。昔から地域との結びつきが強い祭りであることも伺える。

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粛々と執り行われる神事に海外からの参加者も

 

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▲午後17時、阿蘇神社に戻り還御門をくぐる宇奈利たち

毎年行われるおんだ祭は、その歴史と規模からしても多くの観光客と見物客、写真愛好者たちでにぎわっている。そこにはアジア、欧米からの外国人観光客も多い。伝統的な神事ではあるが、今年はオーストリアのウィーン大学の学生が法被を着て神輿を担ぐ姿も見られた。真っ赤な顔をして流暢な日本語で「楽しいです」と話していた彼ら。日本の農耕祭事は、彼らの目にどう映ったのだろう。県外からの移住者が駕輿丁の副頭を務めるなど、新たな交流も加わり、さらなる進化を続けるおんだ祭。阿蘇の風景に心地よく溶け合う田歌を聴きながら、ぜひ悠久の時に思いを馳せて欲しい。

 

◆開催日程

おんだ祭(御田植神幸式)

毎年7月26日(国造神社)、7月28日(阿蘇神社)

場   所:国造神社(熊本県阿蘇市一の宮町手野2110)

      阿蘇神社(熊本県亜阿蘇市一の宮町宮地3083-1)

お問合せ先:国造神社(0967-22-4077)

      阿蘇神社(0967-22-0064)

この記事の情報は2018年のもの

 

参考資料:

『神々と祭の姿 阿蘇神社と国造神社を中心に』一宮町(1998年)

 

田植え初めで1年を占う? タイの農耕祭『プートモンコン』とは

JA全農によると、日本における国民一人あたりのお米の年間消費量は、50年前のピーク時における120kgに比較して、現在では60kgとほぼ半減しているそうだ。その理由についてはやはり食の多様化が挙げられるだろうが、我々日本人のお米に対する意識の変化も大きいように感じられる。

日本と同じようにお米を主食とするタイでは、5月前後に始まる雨季の前に、『プートモンコンと呼ばれる田植え初めの儀式が行われる。日本ではほとんど知られていない行事ではあるが、そのプートモンコンについて知ることは、お米に対する意識をほんの少しでも上向ける機会になるのではないか。そんな思いから、今回はタイのプートモンコンについてご紹介したい。

 

『プートモンコン』とは?

プートモンコンとは、タイの王宮広場前で行われる、タイ王国王室によって行われる田植え儀式である。今年もタイ国王が直々に参加した重要な行事なのである。農耕祭とも呼ばれ、タイ中の農民が祝福を受ける式典の日として、官公庁などは休みになる。

今年のプートモンコンは5月14日。『今年の』とつけると、「なるほど、プートモンコンというものは旧暦で行われるのだな」と思う人もいるかもしれないが、それは誤りである。なんとこの日は毎年占星術によって決められ、タイ王国宮内庁によって発表されるのだ。

そしてその儀式中、二頭の聖なる白い牛がコメ、とうもろこし、豆、ゴマ、草、木、酒のうちの何を食べるかによって今年の作物の出来を占うという。古来から農耕は宗教的儀式と密接に結びついてきた。様々な方法で豊作を祈願してきたわけだが、タイにおける豊作祈願がこのプートモンコンというわけである。

tauehajime1(写真引用:タイ農業共同組合省 https://www.moac.go.th/calendar-preview-401291791806

 

プートモンコンの起源

プートモンコンはタイの農耕祭。つまり『祭り』である。プートモンコンの起源について調べるに際し、祭りとは何か、ということについて考えてみよう。そもそも祭りとは『祀る』が名詞になったもので、感謝や祈り、神や仏を祀る行為を指す。日本にもたくさんの祭りがあるが、それらも農作物に対する感謝や、豊作を神仏に祈る行事であった。

例えば、日本の春祭りは農耕の初めとして豊作を祈願する儀式がその大元となっている。つまり、日本もタイも祭りに対するルーツ、根っこの部分は全く同じなのだ。その年の農作の始めに豊作を願い、祈りと感謝を捧げる大切な機会なのである。

日本と同じように、タイにおける主要農作物はお米。しかも世界一のお米の輸出国でもある。であるから、稲作とその始まりを告げるプートモンコンに対する国民の関心も非常に高い。儀式終了後に広場にまかれる種籾は金運上昇の縁起物として観覧者が殺到するという。日本人も縁起をかつぐのが大好きだが、こういうところでもタイと日本の類似点が見られて微笑ましい気持ちになる。

tauehajime2(写真引用:タイ農業共同組合省)

 

2018年のプートモンコンの結果は?

プートモンコンのメインイベントと言えば、やはり牛が食べたものによって今年の作物の出来を占うという儀式であろう

なぜ牛なのか? それはやはりタイの農作における牛(水牛)との密接な関わりが関係している。タイの稲作と牛との関係については、筆者の別記事、『「人牛一体」で大暴れ!タイ伝統の水牛レースは農耕に携わる人々の熱い想いが込められていた』をぜひご覧いただきたい。

そして気になる今年の結果は、『十分な量の水と豊富な食料に恵まれ、交通と貿易が改善し、経済が発展する』という占いが出たそうだ。何とも景気の良い結果ではあるが、牛が食すコメ、とうもろこし、豆、ゴマ、草、木、酒からどうしてそこまで分かるのか、不思議なところでもある。

ところでこの占い、実はからくりがあって、毎年細かな違いはあれ『豊作』という結果に変わりはないそうである。タイ人としても本気で占いを気にするということではなく、田植え初めの景気づけ、という側面が強いのであろう。

tauehajime3(写真引用:タイ農業共同組合省)

 

日本と同じく、お米が主要な農作物であるタイ。その田植え初めに王宮を挙げて祭りと儀式を行うあたり、お米に関する関心は日本人以上に高いと言えるのかもしれない。

そしてプートモンコンの起源や縁起物を大切にするタイ人の気質について考えると、我々日本人との共通点や似ている部分が多いことにも気付かされるのではないだろうか。

米離れが着実に進行している日本。タイにおけるプートモンコンのように、様々な機会にお米の美味しさや大切さを見直す機会を持てるようにしていきたいものである。

 

文:dctyk
タイ在住のライターで、日本にも拠点を持つ。日本とタイを行き来しながら、タイの食文化を探る日々を送る。タイ人直伝の米の炊き方を元に、湯取り法にたどり着いた。お酒に関する造形も深い。

「人牛一体」で大暴れ!タイ伝統の水牛レースは農耕に携わる人々の熱い想いが込められていた

 

どんどんと機械化が進む現代農業。人手不足の解消や作業の効率化、安全面での対策など、日本の農業、とりわけ稲作において機械化は切っても切れぬ関係であろう。

しかし、今のような大型機器が田んぼに姿を現す前、先人たちは馬や牛などの動物たちに頼ってきた。そんな在りし日の農作業の様子を今に伝える伝統的な行事が、タイで行われている『水牛レース』である。今回はその水牛レースの様子について、タイに在住する筆者が現地からレポートをお伝えする。

 

タイ伝統の水牛レースとは?

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今回紹介する水牛レースは、タイ中部のチョンブリー県で毎年行われている伝統ある祭りである。元々は米の収穫を祝うための祭りであり、1週間続く祭りの期間中は歌謡ショーやパレード、美人コンテストなど、様々な催し物が行われる。水牛レースはその祭りの中でも最も注目を浴び、県内外から多くの観光客を集めるまさにビッグイベントだ。

タイでの農業は元々水牛に頼って行われていた。そのため、タイでは働き者の水牛に特別の注意が向けられる。これは余談だが、タイ国内では牛肉を食べる文化があまり発達していない。スーパーに行っても鶏肉や豚肉は盛んに売られているが、牛肉はほとんど食べられていないのだ。どうしてなのかタイ人に聞いてみると、宗教的な禁忌というわけではなく、昔から何となく食べていない、食べる習慣がなかったということらしい。これはやはり農業と密接に関わる水牛を積極的に食べることをしてこなかった、ということと関連があるのかもしれない。

それはともかく、昔からの農作業の伝統を絶やさぬよう、祭りのクライマックスを飾るものとして行われる水牛レースだが、迫力ある水牛のレースは年々脚光を浴びるようになり、今では多くの観光客が訪れる大注目のイベントなのだ。では、実際の水牛レースがどのようなものなのか見ていくことにしよう。

 

水牛レースの様子

収穫が終わった田んぼで繰り広げられる水牛レースはとにかく迫力満点である。

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しかし何しろ牛のため、レースは一筋縄ではいかない。水牛の中には、スタート地点に向かう途中であらぬ方向へ向かっていったり、途中で止まってしまって動こうとしないものたちもいる。

競馬のようにスタートのための立派なゲートというものは存在しないのだが、とにかくレース開始まで時間がかかって仕方がない。カメラを構えてスタートを今か今かと待ち構える観客もしびれを切らして、カメラを持つ手を降ろしてしまうほどだ。しかしいざレースがスタートすると、やはり牛だけに迫力が違う。田んぼの泥水を跳ね上げながらゴール目指して走り抜ける水牛の姿は壮観である。

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1レースに出場する水牛の数は6頭。予選があるわけではないので、水牛ごとの実力差はバラバラ。牛とは思えぬほどの猛烈なスピードで駆け抜ける牛がいるかと思いきや、レースなどどこ吹く風、あくまでのんびりとマイペースに歩を進める牛の姿も微笑ましい。

ちなみに、牛の乗り手である騎手はジョッキーと言われるが、レースに臨む水牛たちはタイ語で『นักกีฬา(ナックギャラー)』、つまり『選手』と呼ばれる。やはりレースの主役はあくまでも水牛なのだ。

また公然の秘密ではあるが、一つ一つのレースは当然のように(?)賭けの対象ともなる。さらに優勝した牛は最高で30万バーツ(約100万円)で取引されることもあるというから、騎手にとっても観客にとっても、まさに真剣勝負ということなのだろう。

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タイの水牛レースを振り返ってみて

タイのチョンブリーで行われる水牛レースの様子を簡単にお伝えしたが、いかがだっただろうか? タイ国内においても、水牛を使ってノンビリと行う農作業というのはもはや昔の話。タイの農家にも近代化の波が押し寄せ、日本と同じように機械化がドンドンと進んでいる。

しかし、そんな中にあっても人々の生活に密着した水牛にスポットが当てられる水牛レースは、タイ人の水牛に対する想いがぎっしりと詰まっているのではないだろうか。『人牛一体』となって行われている水牛レースだが、その背景にはタイの人々の生活と農耕、そして水牛との関わりが一体となっている様子が透けて見えてくるのである。

 

文:dctyk
タイ在住のライターで、日本にも拠点を持つ。日本とタイを行き来しながら、タイの食文化を探る日々を送る。タイ人直伝の米の炊き方を元に、湯取り法にたどり着いた。お酒に関する造形も深い。

“なすび”の意味は不明!?熊本県山鹿市に室町から伝わる『なれなれなすび踊り』

 

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起源は450年ほど前の室町時代以前。戦乱により一度途絶えるも約250年前に復活された、五穀豊穣を祈る『なれなれなすび踊り』奉納。熊本県山鹿市の無形民俗文化財に指定されている不思議な舞楽を紹介する。

 

五穀豊穣を願う

「この日は毎年冷えるんです」焚き火を前に地元の男性が話す。まだ寒さの残る3月の第2土曜日の夜。約110軒ほどの世帯数、300人ほどの集落にある長坂厳島神社で、『なれなれなすび踊りが奉納される。地元の区長や市長も参加し、20時から神事が開始。準備や運営は地元の若者が中心となって行っている。

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なぜ神事が遅い時間から始まるのかは不明とのこと。


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その後、宴会が始まる。踊りが始まるのは22時から。70代の地元の男性曰く、何十年か前は深夜0時を過ぎてから始まっていたらしい。


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地元の先輩方は焚き火を囲みお酒を飲んでいる。外から来た人が飲み食いできるようにと、出店も用意される。宴会が終わり片付けた後、地元の若手は踊りの衣装へ着替え始める。

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22時。「みんみら三ツ」の掛け声を合図に、いよいよ『なれなれなすび踊りが始まる。

踊り手6名、太鼓の打ち手4名、歌い手10名ほど。踊り手は麻の狩衣に着替え、二つ折りにした編み笠をかぶった独特の姿。打ち手と歌い手は青色の袴姿に着替える。長坂厳島神社に祀られる神は宗像三女神と呼ばれる3名の女性の神様で、『神様が嫉妬する』という理由から男性のみが参加。以前は未婚の男性のみであったが人が集まらなくなってきた為、最近は既婚者も参加している。

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太鼓に合わせ歌いながら時計周りに周る独特の舞。足の裏を見せて踊るのがうまいとされているそう。一度歌が終わると、また最初からもう一度繰り返す。
映像はこちらをクリック


一 みんみら三ッ よさ イヨサ
  なれなれ茄子のん ヤヤコレナ
  瀬戸のおおやのおお茄 なれねばアよめのん ヤヤコレナ
  嫁の名のたつのん ヤヤコレナ

二 これから 見れバのん。ヤヤコレナ
  近江がァ見ゆる 笠こうてたもれん ヤヤコレナ
  オ近江すげ笠のん ヤヤコレナ
  なりがァようてエきようて 志めをが長うてん ヤヤレコナ

三 これから ここはのん ヤヤコレナ 鎌倉海道
  銭もてござれん ヤヤコレナ
  ふう引キャアしましょいのん ヤヤコレナ
  宝引キャばくち あげくにやごまのん ヤヤコレナ
  ごまァのしめからしん ヤヤコレナ

四 ここは石原や 小石 小石原のふ エイイキソレナ
  踊 踊らばャァ こしを こしをふれの エイイキソレナ
  (こしを コレ)ふらねばャァ 踊りや 踊れぬのエイイキソレナ

五 長い刀ャァ からで からでさすの エイイキソレナ

六 きそん十七ャァ 寅の 寅の年の エイイキソレナ

七 松の葉越しからャァ 月み 月見れバ
  しばしやくもりて ャァ まあた またさへる エイイキソレナ

八 (かかよ ないとせ) ままこをふよ ヤレ
  あみそへて はらのほんぐる程
  ままくふて遊ぼ (たんだ エッセ)

 

歌の意味は地元の男性もよくわからないまま歌っているそう。“なれなれ”は五穀豊穣を願う“成れ成れ”からきているが、“なすび”の意味は今となっては分からないとのこと。

神社で踊った後は、500mほど離れた稔の神が祀られている丘まで、子どもたちの松明の灯りを頼りに移動し、また踊る。雨天時は太鼓が濡れるため、神社での踊りのみになる。その後神社に戻り、22時40分前後に奉納が終わった。

 

ふるさとを意識する

『なれなれなすび踊りは1970年山鹿市無形民俗文化財に指定された。最古の記録は安永元(1772)年、山下甚左右衛門親之著『鹿郡旧語伝記」に記されている。

『……盆踊コノ町ノ者共シテ年ノ神迄太鼓鐘ヲ鳴ラシ喚キ行キ賑フ。落城後町並モ乱レ盆踊リモ絶エタリ。然ルニマタ今七月十六日ノ夜年ノ神迄太鼓鐘ヲ打立テ古風ノ歌ヲ歌イテ賑ヒ行ク。……』

という記述から、中世(室町ごろ)を起源に盆踊りからはじまり一時戦乱のため途絶え、鹿郡旧語伝記が記された約250年前に再び踊られていたことがわかる。

『なれなれなすび踊りは、江戸時代には山鹿市最大のお祭りであるお盆時期の山鹿灯籠祭りの当日に奉納されていた。明治には1ヶ月遅くなり、養蚕の繁忙期を避けるなど日程の変更があり、現在の3月になっている。謎が多い舞楽であるが、地元には今も各世代へしっかりと受け継がれている。

地域にとってこのお踊りはどんな存在なのだろう。区長さんは「地元を、ふるさとを意識させてくれる存在ですね」と話してくれた。菊池川流域の古くからの穀倉地帯であり、今も米づくりがあるからこそ形骸化することなく伝わってきたのかもしれない。機会があれば見学に訪れてみてはいかがだろうか。

 

◆開催日程
毎年3月の第2土曜日 20時から神事 22時から舞楽
長坂厳島神社(熊本県山鹿市長坂428番地)
※記事の情報は2018年のもの。
※最新の開催日程などは、山鹿市役所観光課(0968-43-1579)にお問い合わせください。

 

参考文献:
『山鹿市史』山鹿市史編纂室 編(1985年)

ご飯が白いカビに覆われると豊作かも?鎌倉から続く米占いとは

 

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大分県日田市の大原八幡宮で毎年3月15日に開催されている米占い(よねうらない)。建久4年(1193年)の鎌倉時代から記録があり、国の選択無形民俗文化財に指定されている。1ヶ月保管した小豆飯に生えるカビの生え方で、地域と五穀の吉凶を占う祭りだ。

占いの流れ


旧正月が過ぎた2月15日。大原八幡宮にて米1升3合、小豆3合の小豆飯が炊かれる。全国には同じようにカビの生え方で吉凶を占う『粥だめし』の祭りが複数あるが、粥ではなくご飯を使うのは特徴の一つだ。

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用意される器は図の通り2つで一つは日田の地形、もう一つは五穀を現す。地形盆は藤かずらで河川をつくり地形に合わせた丘を作り盛り付け、川名の札を立てる。五穀盆は5等分に仕切りを作り稲、粟、豆、稗、麦の札を外側に立て小豆ご飯が敷かれる。
米占い日田市提供写真日田市提供

お祓いを終えると神殿内に納め、鍵をかけて1ヶ月間保管される。
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3月15日、朝8時。大波羅八幡宮と刻まれた鳥居をくぐりきれいに掃除された境内に入る。階段を登ると市有形文化財に指定されている1687年築造の楼門と1794年築造の本殿が現れる。


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大原八幡宮の起源は天武天皇の九年(680年)とされる歴史ある神社だ。


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8時になると神殿で祝詞がはじまる。このあたりでだんだんと占いを行う地元の氏子さんたちが集まってくる。今年は5名ほどが参加されていた。10名ほどになることもあるそうだが、昔に比べると人も減っているそう。氏子が占う事も特徴の一つで、神社の宮司さんたちは占いの結果に関与しない。地元の『古老』が務めるとされている。

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祝詞が終わると、保管されていた盆が外の占いの為に設置された台へと運び出される。

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予想以上にカビがモッリモリだ。その後スタッフで美味しく頂けるレベルではない。しかし不思議なことに全く臭くはない。

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氏子さんたちの注目を一身に集めるカビたち。

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皆さん真剣にカビを見つめている。カビは周りの環境で変化していく為、遅くとも30分以内には占い終わる必要があるのだ。

占う基準について『日田市十年史』から引用する。

地形盆について
・全面、白一色のカビで覆われている…日田市郡平穏無事
・赤色の斑点がある…河川の位置、方位から判断して〇〇村方面に火災がある
・青色のカビがあり、亀裂が生じ下流に向かってカビがふくれ上がっている…〇〇川筋に大洪水がある
・やや黄色がかったカビで塗りつぶしたようになっている…暴風に見舞われる

五穀盆について
・仕切られた区域内が白カビのみで覆われ表面に露がある…豊作
・黄色や赤色を帯びた斑点があり露が少ない…干ばつにより凶作
・青色や紫色にカビた部分がある…病虫害のため不作

また、円の中心は植え付け時、外側は収穫時を表すそうである。

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この五穀盆の写真を見ると、米麦の間くらいに黒いカビがあるので田植え後に病害虫が出る可能性があるが、収穫時には回復し豊作となるだろうとのこと。じっとカビを見つめていると、神秘的にも見えてくるような、見えないような…。

いつから始まった?


大原八幡宮の歴史が書かれた巻物(縁記)に建久4年(1193年)に大伴氏が鎌倉鶴岡八幡宮に習い『大原の祭の式制を定』とした記録があり、そこから米占いが始まったとされる。また、江戸時代末の祭事についてまとめられた『大原宮行事旧慣』には米占いの手順が示されている。

正月十五日
当日小豆粥の神饌を献し撤饌の上、粥だめしを造り本殿に納む、
丸盆に此御飯をつめ五つにしきり、稲、麦、粟、大豆、蚕の札を立つ、次の盆には藤蔓にて郡内河川の型を置き、川の名札を立置、
二月十五日
早旦正月十五日調整のかゆだめしを神殿より出し、従覧所に陳列して衆庶に観覧せしむ、之を米占いと云う、
諸人は此かゆだめしに依って、作並の吉凶を勘し地方の天災地異を判断す、


粥とあるが古来、御飯は固粥と呼ばれていたとから現在の小豆飯のことを粥と呼んだと推測される。以前は五穀に蚕が含まれていたが現在は時代に合わせて稗に変わっている。日付の違いは旧暦の表記のため。


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カビの意味をどう感じるか


毎年参加しているという男性に話を聞いてみた。「やっぱり凛としますね。旧正月が終わり、年の初めにその年の吉凶を考えるというのは」とのこと。ちょうど農作業がこれから始まる時期でもある。宮司さんから言われる事を聞くのではなく、見た人が自ら考えることに意味があるのかもしれない。2017年の水害は予見できなかったそうだが、5年前はピタリと当たったとの話もあった。的中率は不明だそうだが、毎年自然と人が集まり占いが続いている。
初めてこの占いを知った人は「ご飯がもったいない」と感じる事もあるだろうが、今よりもっと穀物が貴重であったろう鎌倉からずっと、神社と地域に暮らす人との協働で伝えられてきている不思議なお祭りである。地元の氏子でなくても見学自由なので、一度訪れてみては。

◆開催日程
毎年3月15日
午前8時〜8時20分ほど
大原八幡宮(大分県日田市田島184)
お問い合わせ先:大原八幡宮(0973-23-8951)
この記事の情報は2018年のもの

参考文献
「日田市史」 発行編集 日田市 平成2年発行
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